2015年5月31日日曜日

メモ-自衛官のリスク?

集団的自衛権で自衛官のリスクが高まるのではないか。命を失うケースもあるのではないか。自殺者が多いのはそれだけ任務が過大であり負担を背負いきれないからではないか、等々。自衛官の今後の業務においてリスクが高まるはずであるという議論がかまびすしい。

リスクねえ……

警察官の殉職や自殺はなぜ問題にしないのか、消防吏員のリスクはなぜ過大であると問題にしないのか?海上保安庁は危険でもいいのか?危険な現場で職務にあたっている人達に失礼ではないか。思わずそんな感想をもってしまいます。

そもそも武力行使や武器の使用についても議論が混乱している。神学論争になるのは最初から分かっていることだが、少しはまともな議論があってもいいだろうに。

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自衛隊が武器をもっているのは、使用せざるを得ないケースを想定しているからだ。絶対的に使用しないと決めている武器なら、最初から持たないほうがよい。非武装という形は、武力不行使を最も明瞭に相手に伝えられるからだ。武器を所持している以上、特定のケースでは武器を使うと考えているのは当たり前のロジックだ。その方がリスクが低くなるという論理的判断がここにまずある。これがスタート地点だ。ここでまず「非武装」を支持するか、「武装」を支持するかで分かれるはずだ。

しかし、そんな議論はもはや行われていない。

その「武力行使可能」、いや「派遣可能」と認定される範囲が拡大されるというので、「戦争法案」であるとか、「リスクが高まる」と野党は政府を非難しているわけである。

やれやれ、「戦争法案」というなら、真っ先に「違憲だ」と叫ぶべきでありましょう。それにリスクは本当に必ず高まるのか、その論理的根拠はなにか?リスクって何を指して「リスク」と言っているんですか、と。

大体、何を目的として日本国は「交戦可能な(=違憲の疑いすらある)武力」を持っているのだろう。それも高額の予算を費やしてまでも。

その国家戦略目的がアヤフヤで全く自覚がない。故に、自衛隊を派遣するにしても目的が定義できない。だから、自衛隊の行動を外的基準によって束縛しようと考える。これは税金の無駄遣いの中でも最たるものであるのだが、そんな自覚もないのではなかろうか。

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危険な職務に従事している中で、とにかく相手国のあることでもあり、万が一命を失えばそれは「殉職」と呼ばれる。それではいけないのか?「戦死」と呼ばないといけないのか?警察官や海上保安官が業務に殉じた場合は「殉職」であり、自衛官だけは「戦死」と呼ばないといけないのか?

そもそも日本は『国の交戦権はこれを認めない』と断言している。それ故、いかなる紛争も「交戦状態」とは認めるわけにはいかず、したがって「戦死」は発生しえない。

さて、現実に悲しむべき事態が、万々が一、生じてしまったとき、どう辻褄を合わせるかねえ・・・、そこで繰り広げられる議論は、まず必ず、法廷さながらの法学的神学論争であり、現実とは関係のない、言葉の上の論理構築になる。そう予想している。

小生の個人的印象だが、もし万々が一こうなるなら、これは民主政治の堕落だ。「堕落」とは一般的に知的な劣化、道徳的な劣化から発することである。ま、そこにはあらゆる劣化が含まれる。思いやりの劣化、信義の劣化、勇気の劣化、その他あらゆる側面が含まれる。そんな全面的劣化現象の主たる原因は、大方の場合、まず教育の退廃にあるものだ。潜在的可能性があるだけに、こんな最悪の状況に至らないことを望む。

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