戦後70年を経たにもかかわらず、もはや最大の外交問題となってしまった「歴史問題」。
現在においてさえ、日韓間に存在した、というか存在している標記の歴史問題を生きたテーマとして研究し、議論する専門家は多数いる。
西洋史学者の林志弦(イム・ジヒョン)西江大学教授(56)は最近、自己紹介するとき、歴史学者ではなく「記憶の運動家(memory activist)」という表現を使う。民族や国家を前に出して隣国と衝突を起こす自国史中心の限界を超え、地球的観点から歴史または記憶を普遍化してみ ようという趣旨だ。ここ数年、執拗(しつよう)に追跡した「犠牲者意識の民族主義」も、国史パラダイムを超えてこそ歴史をきちんと見ることができるという 問題意識から出発した。(出所)朝鮮日報 Chosun Online、2015年10月18日
例えば、ユダヤ人がナチスによる大虐殺の犠牲者という事実を押し立て、イスラエルによるパレスチナ 人抑圧を正当化したり、第2次大戦当時ポーランドがナチスから大きな被害を受けたという理由で、ユダヤ人虐殺を助けた加害者としての責任を認めなかったり することを批判している。
(中略)
今年の1学期に漢陽大学から西江大学へとポストを移した林教授は、少し前、大学内にトランスナショナル人文学研究所を設立した。来年8月、ベルリンの 「テロのトポグラフィー」と共同で、ナチス占領期および日本の植民地時代における強制徴用を比較するワークショップをベルリンで開催し、翌年はソウルで、 交互開催方式を用いて比較研究していく予定だ。林教授は「強制徴用や従軍慰安婦問題は、韓日間の民族的対立という観点を超え、反人道的人権侵害という普遍的問題としてアプローチする方が、世界の人々の共感を得やすい」と語った。
要するに、下線部に述べられているように民族間の「歴史問題」としてではなく、人類社会にとってより普遍的な「人権問題」として提起し、解決していく方向がより望ましい。要旨はこれに尽きる。
もし普遍的な人権問題として問題を提起するなら、「戦争」という政策をとる以上必然的に発生する敵国の国民殺害という行動自体を最大の人権問題にするべきである。また、同国人の生命をそのまま兵器に使った日本の特攻作戦、というよりそもそも戦争を準備する法制度である徴兵制も窮極の強制徴用であり、これもまた普遍的な人権問題として同列で議論するべきだと言う結論になる。
つまり「戦争」という政策を政府がとるということ自体が最大の人権問題である。
故にロジックとしては、あらゆる「戦争」を否定する「非戦」を主張するのでなければ論理一貫しないのが上の議論である。がしかし、では人権をまったく顧みないテロ集団にどう向き合ったらよいか? 反人道的人権侵害を繰り返すテロ集団と認定されれば、その集団には人権はないのだから反人道的に抹殺してもよいというロジックになるのか?おそらく残虐な人間集団に対する怒りは、これまた普遍的な集団感情であるので、つまるところ「どちらが正しいか、正しいのはこちらだ」という議論になるのではないか。つまり、「それが正しければ戦争を実行しても良い」。そうなるのではないか。
そう考えるなら、二つ以上の国家が戦争状態に至る可能性を防ぐことはできない。これは明らかだ。
一度「正しい戦争」を認めるなら、「それほどでもない人権蹂躙行為」はすべて許されてしまうだろう。
そう考えない、つまり「どちらが正しい」という議論自体をもう止めよう。 そう考えるなら、歴史問題をモラルとして議論する見方は消え去り、すべては紛争と調停、損害賠償と慰謝料の話しになる。小生は、これが望ましいと思う立場にあるのだが、そう割り切るのは「国民感情・民族感情」がある以上、現実には無理だろう。歴史とは、つまりプライド、結局は感情の話しなのだ。感情が未整理のままある限り、歴史を話さずにいられるはずがない。
なので、日韓間の歴史問題を「人権問題」として抽象化・普遍化するのは、(一応)解決するための一つの方法かもしれないが、だからといって「歴史問題」が消えてなくなるわけではなく、いずれまた再燃するかもしれず、人権が尊重される時代が来るとも限らず、人権が踏みにじられる同じような事態が繰り返される可能性もあるだろう。
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それにしても、この秋に日本に参入したNetflix、更に来年には韓国、台湾、シンガポール、香港に進出するようだが、中国本土への上陸はかないそうにない。そこはアリババの天下である。思えば、中国市場でのビジネス展開はアメリカの国家的宿願であった。遠くさかのぼり、戦前期にアメリカが日本に加えた外交圧力と太平洋戦争開戦に至るまでのアメリカの根本的動機はアメリカ企業の顧客確保であった。 アメリカは日本に戦争では勝ったが、中国市場は共産革命によって閉ざされ、アメリカは戦略的には失敗した。そして今なおアメリカ企業は中国市場で自由に事業を展開できてはいない。
国民感情は移ろいやすい。リアリティは心の中には存在しない。感情に基づいた意思決定を行うべきでないのは、個人も国家も同じことである。
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