年齢は様々。北海道での生活歴についても、二人は新人、一人は2年超、小生は20年以上ありと様々であった。そして専攻分野も、統計分析を駆使する社会学が専門でいまは英語を教えている人もいれば、商学部で数学を教えながら整数論を研究している人もいたし、ビジネススクールに所属しながらROEを批判する本をこのたび出版した御仁もいた。小生は統計学が専門であるので英語を教えている社会学者には何がなし親近感をもったものである。
その女性社会学者曰く『イギリス英語は仮定法が多いんですよね』。そうしたら、元は自動車会社のビジネスマンでいまは反ROEの経営学者が『仮定法過去っていうのがありましたね』、『過去完了もあった・・・』、『Could you please ...というヤツですね?』とまあ、意外にこの手の話題は盛り上がるものだ。
その内に数学では『・・・が満たされるなら・・・・が成り立つ』と、そんな議論となり、その条件部分を仮定法で書くとどんな感じになりますかね、と。何かそんな風に茶化した記憶があるのだが、ひょっとすると小生の記憶違いかもしれない。
ただ、あれであるな、理論経済学でいう完全競争均衡のパレート最適性を主張する定理。あれは仮定法過去で書いた方がいいかもしれない。条件が満たされるなどと言う可能性はないに等しいからね・・・。
If the next conditions were satisfied, the competitive equililbrium would be optimal in the sense of Pareto. ...
いいねえ、仮定法は。下の例文は有名だ。
If I were a bird, I could fly to you.
経済学の教科書でもこんな文章になるか・・・。『もしも・・・もしもです、以下の諸条件がひょっとして満たされますならば、完全競争均衡はパレートの意味で最適となることを論理的に証明することができるのでございます』。仮定法を用いた言語表現はとても上品なのである。
コナン・ドイルがものしたホームズで使われている英語もどこか古めかしく仮定法が至る所で駆使されている。『ワトソン君、僕がいま鉄道に乗るとして、モリアーティ教授がどう対応するか考えたことがあるかね?』、『そうさね、君がいまロンドンを離れる可能性があるとは当然想定しているだろうから、彼は君を追うだろう』、『そしてどこで降りる?』、『もし君がA駅で降りないとしたら、B駅まで行くと予想するだろう』、『ではモリアーティ教授はB駅まで乗るだろうか?そうすれば僕はA駅で降りればよい』、『いやいや、モリアーティもそう考えるだろうから、A駅で降りるだろう。』、『では僕はA駅でおりない方がよい』、『そもそも君はここにいるという選択肢もある』、『では愛すべきモリアーティ教授は鉄道には乗らないだろう、だとすれば僕は鉄道に乗る方がよい』・・・・・・。ウィンナワルツにある「常動曲」よろしく、この会話は永遠に続く。もちろんこの会話は仮定の上でのものだ。
話題はいつしか歴史の話しとなった。歴史とは過去に生じた状況の― 成功もしくは失敗の― 分析であるので言語表現としては仮定法過去完了が使われるべき分野である。
しかしながら、小生が七不思議だといつも思っているのだが、日韓歴史問題論争において仮定法過去完了が使われた論争が展開されたとは聞いたことがない。
もしも1876年の日朝修好条規が不平等条約ではなく、双方の平等性を規定した未来性のある条約であったとしますなら、その後はどうなっていたでございましょう。そしてその時、ロシアはそのことによって利益を得たでありましょうか?損失を受けたでありましょうか?実に上品である。
小生は中国語にはうといのでよくは知らないが、「論語」の文章で仮定法は使われておらず、すべて「である・でない」の直説法であり、せいぜいが「であろうか?」という修辞的疑問文である。「孟子」も、というより四書五経はすべて「である・でない」の直説法の文学ではないかと思われるのだがどうだろう?
そうであるからこそ、東アジアの儒教文化圏で展開されている歴史分析は、「れば・たら」が一切なく、可能性の考察が一つも混じらない、野暮なやりとりになってしまうのだろう、と。そう憶測しているのだ。 どうもこの背景には、2千年以上も前の単純素朴な人間社会を前提に著された古典を「科挙」という不毛の国家試験に合格するためずっと一所懸命に勉強してきた人たちの仮定法なき思考パターンを継承した文化があるような気がするのだ、な。
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