2018年6月30日土曜日

松平定信=保守反動政権は一面的であった・・手のひら返し

専門はマクロ経済の実証分析であり歴史ではない。経済史でも計量的手法がこの4、50年間に大いに普及してきたので、最初のゼミ選択で経済史畑を選び、徳川期の日本経済に関する統計的分析を研究テーマにしてもよかったなあ、と今になって感じている。

最近(と言っても、刊行直後に購入したので3年前になるが)読んだ本の中で感心したのは岩新のシリーズ「日本近世史」にある第5巻『幕末から維新へ』(著者:藤田覚)だ。

時代としては、天明期の経済危機(=天明の大飢饉)の後、明治維新直前までが対象範囲である。具体的には、寛政(概ね1790年代)から天保(概ね1830年代)にかけて外国船の接近・渡来が頻発する中で、当時の政府である幕府が国防・外交政策に苦慮し、莫大な努力と迷走を繰り返しつつ嘉永6年の黒船、幕末へと至った時代である。その100年間の中には、御用金(=国債)と貨幣改鋳による益金(=マネーサプライ増加)で財源を調達し続けつつも、文化的には江戸期最後の花を開かせた文化文政期も含まれる。

もう何度も読み直した。

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江戸期の日本をどう評価するかについては、明治維新の過大評価の見直し風潮と反比例する形で、最近は江戸期再評価の視点が注目を集めているが、その嚆矢はといえばやはり小生がまだ学生時代に世の注目を集めつつあった速水融先生であろう。江戸時代から停滞と抑圧のイメージを払拭したのは速水氏の(例えば)『日本経済史への視覚』である。氏の「勤勉革命」は維新前の日本社会を見る目をずいぶん明るいものに変えてしまった。

上に引用した岩新だが、読みどころは満載だ。田沼時代の「政治の経済化」を崩壊させた天明の大飢饉に対して、再び行政の再構築に努力した政権として松平定信を位置づけている。その定信は早い段階で政権をしりぞいたものの、残った「寛政の遺老」たちが天保期に至る19世紀初めの政治的努力を主導したプロセスが分かりやすい形でまとめられている。第3章「近代の芽生え」は中でも必読かもしれず、高校生の夏季課題図書に選んでも適切だろう。
日本人が非常に変化した、というか近代化したのもこの時代である。
頂点的な学者たちの学問の発展ではなく、民衆の知的な発展を近世後期の歴史の基礎過程としてみておきたい。江戸時代後期に生きた民衆は、生産、生活、文化のさまざまな面で、ゆっくりとしかし着実な進歩・発展を遂げた。それこそが、江戸時代の社会を突き崩し近代という歴史を準備したもっとも深部の力と考える。
(中略)
一季奉公人たちは奉公先で夜間に勉強し、初めは古状揃・庭訓往来でも難しすぎると言っていたのが、四書五経へと進み、素読稽古の夜は短いと嘆くほどになり、のちに素読はしなければならないものと言われたほど流行したという。
(中略)
庶民の教育機関である手習い所は、とくに18世紀から19世紀に入ると激増し、「教育爆発」ともいわれる現象が指摘されている。商品生産、貨幣経済の発達にともない、日常の生活や生産の場で、またよりよい奉公先を得るため、読み書き算盤が必要になったことがその背景にあった。それが日本人の識字率を高めることに結果した。
このような動きを具体的な史料をリストアップしながら説得的に紹介している。

ずいぶん前の投稿で松代定信の寛政の改革=保守反動と位置付けたが、これでは節穴であった。

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これは素人の仮説的空想なのだが、経済政策に重点を置いた田沼時代を経て、そのバブルともいえる好況が天明期の自然災害(飢饉、浅間山大噴火)をきっかけに崩壊するのだが、このような繁栄と崩壊を経験する中で日本人の合理的思考はずいぶん鍛えられたのではないだろうか。方向性が全く異なる蘭学と国学とが開花し発展したのはこの時代である。国学が古神道と結びつき尊皇攘夷思想を育んだのもこの時代だ。 人々が多様な思考を議論できるようになった背景として、何と言っても貨幣経済の全国的浸透を挙げなければなるまい。国を問わずマネーは社会の近代化のエッセンスであり、近代化を推進するための駆動力なのである。もちろん貨幣と金融は制度としてシステム化されて初めて機能するものだ

徳川時代といえば、17世紀末の元禄時代までは高度成長を実現したが、その後はゼロ成長社会となり、生産性はマイナス、人口もマイナス、文化水準も俗悪化、国民の気質も矮小化と、そんな否定的見方が多かった経緯がある。特に戦前期にはそうだ。今後読もうと思って古書店から買い入れた高橋亀吉『日本近代経済形成史』(全3巻)も大略そんな観点に立っている。最近ぼつぼつページをひも解き始めたのだが、いささか失望している。

保守反動である松平定信政権から以後、幕末まで停滞していたはずの日本社会が実はそうではなく、前時代の進歩が民衆レベルにまで浸透し、人的・経済的側面で明治以後の近代化を用意したというのは非常に合理的な理解の仕方である。

ともすれば、イデオロギー論争になりがちな明治維新評価は、まあ一言でいえばどうでもよい問題だ。それは単に宮廷クーデターであったと小生は(個人的には)思っている。政治的立場で意見が分かれそうな問題とは別に、社会のリアリティについてどんな実証的確認ができるのか、知的な意味で真に面白いのはこちらのほうだ。

小生の祖父は戦前期から戦後にかけて銀行に勤務していたが、祖父の思い出話しに登場する話題は小生の知らない物事が多かった。何しろメールやスマホはおろか、TVもなく、電車もなく、自動車やラジオは贅沢品であったのだ。とはいえ、祖父は非常に合理的な人で、小生に話すときの処世訓や世間話は実に分かりやすく、理にかなったものだった。戦前の天皇制と戦後の国民主権と、国の形は真逆になったが、天皇のことをどう思うかというレベルになると、小生と祖父と(当然に父も含めて)、大きな違いはなかった印象がある。法制度とそこで生きる人間のあり方は別なのだと思う。世代は違うが、祖父と小生は同じ年ごろには同じ発想をしたような気もするのだ。世代ごとに人は変わり、流行語も変わるが、大体は同じような考え方をするように日本人はいつなったのだろうか?

社会が近代化すれば、国民は必ず政治に関心を持つ。外国船の渡来に国防意識を高めた江戸期の日本人が
例のとおり公儀にては秘密と申すこと、御持病と存じたてまつり候
と。政府(=幕府)というのは都合の悪い情報を隠すものだという風説があったことを知ると、つくづく日本社会は変わらないものだと、というか江戸時代の政治状況は日本国憲法と幕藩制との外形的違いほどには現代社会と大きくは違わなかった。そんな風にすら感じられるのだ、な。



<近代化>というのが、考えるに値する大きなテーマであるとすると、その淵源を遡る作業はいつでも楽しいものである。



2018年6月26日火曜日

課題解決のための「加重投票制」を提案できる社会とできない国

WSJ(日本語版)にこんな記事が出た。抜粋して引用しておこう:

両氏によると、独占は民主主義さえも抑え込んでいるが、民主主義下での独占は少数派ではなく多数派が主導している。環境汚染への関心が薄い都市部の有権者は、環境対策のための増税は不要だと考え、生活が危険にさらされている少数派の意見を封じるかもしれない。複数候補が争う選挙で扇動的な候補者が勝利することもあり得る。その候補者だけには投票したくないという有権者の票が割れてしまうためだ。

 この2つのケースに共通している問題は、1人1票という原則だ。要するに「投票権は、大いに関心がある人にとって安すぎるが、関心の低い人には高すぎる」ということだ。 
 そこで両氏が示したのは「加重投票制」という解決策だ。さまざまな懸案をどれほど深刻に受け止めているかに応じて、有権者に一定の票数が与えられるというものだ。銃規制に熱心に反対(あるいは賛成)している少数派は、上乗せされた票を投じることで、関心の薄い多数派を打ち負かすことができる。複数候補が出馬した選挙では、有権者がある候補への賛成票だけでなく、別の候補への反対票を投じることも可能だ。 
 こうした提案は注目を集めている。例えば、オランダの活動家らは「情報組合」を立ち上げ、グーグルやフェイスブックのユーザーが情報提供の対価を得られるよう取り組み始めた。 
 もっとも、提案の大部分、特に加重投票制は実務上・政治上のハードルが高い。合併を中止させるといった従来の寡占対策よりも実現が難しいのは明らかだ。
(出所)Wall Street Journal (Japan ed.), 2018-6-15

シカゴ大学のポズナー教授、マイクロソフト所属のエコノミストであるワイル氏へのインタビューに基づいた記事である。

これを読んで思い出したのが、ずっと前に投稿した分の以下の下りだ:

株式会社では人数ではなく、保有株数によって投票を行う。少子・高齢化で年齢分布に偏りが生じていることを考慮すれば、特に将来世代の負担に関する議案では、年齢別に投票数にウェイトをかけて集計するべきだ。特に<世代間再分配政策>を決定する際は、標準的な年齢分布をあらかじめ定義しておき、<標準年齢分布>を超えて高齢者が増えたときには一票を割り引いて数え、負担をする若年世代の投票は割り増して数える方法が合理的である。通常の国政選挙では特定の政策を選択することはできないが、国民投票ならば実行可能である。標準年齢分布は、現在の社会保障システムを持続できる年齢分布であり、それは理論的に導出可能であるはずだ。可能な範囲から一つの標準分布を決めるためには専門家が審議してから国会で決めればよい。
 もう6年前の投稿になってしまった。

確かに「加重投票権」という概念が受け入れられるのは社会的に極めて困難である。「シルバー民主主義」とも言われる中で、高齢者の政治的発言力を抑制しようなどという提案を昨今の政治家が出来るはずもない。実行可能性については悲観的にならざるをえない。

しかし、アメリカでは検討されるべき課題がきちんと考察されている。しかも、考察の結果が大手新聞の紙面にちゃんと掲載され、社会に提供されている。

現実を前にすれば正論が通らないこともある。それでも正論はきちんと言うべきなのだ。

言うべきことは堂々と言う、堂々と意見を述べた人にはリスペクトを払う。それを「ハラスメントではないか?」とか、「許されない言い分だ」などと、モラルの旗に身を隠したような風な居丈高な圧力をかけるのは興ざめだ。こんな脆さを感じさせないところにアメリカ社会のフェアで健全な成り立ちを感じる。歴史を通した伝統文化、つまりは社会のDNAの違いなのだろうか。トランプ政権のヨタヨタ振りを観ているだけでは分からないアメリカという国の強みではないだろうか。

2018年6月20日水曜日

理屈になっていないメディア企業の「世論調査」をどうみる?

もう止めようと思いつつ、カミさんの「でもチラシもほしいし・・・」という希望もあり、ダラダラと続けている地元紙購読。

安倍内閣の支持率が上昇したという報道だ。支持率上昇という点は複数のメディア企業による「世論調査」で共通しているようだ。

それに反して、「モリ・カケについては国民は納得していない」と、「カジノ(IR)法案を今国会で成立させることには国民は賛成していない」と、「文書改竄を指揮(?)したS国税庁・前長官が不起訴になったことには国民は納得していない」と。要するに、安倍現政権がやっている個別の事を国民は評価していない、と。そんな結果をも伝えている。

まあ、書いた側の意識は
支持率は上がっている。しかし、こんなに多くの点で国民は納得していない。
そんなことを言いたいのだとは思う。

しかし、ズバリ言えば、理屈になっていない。中学生の自由研究発表だとしても、これほど理屈の通っていないレポートは稀だろう。それほど駄目である。

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個別の事項については納得していない。納得できないなら支持はできないはずだ。にもかかわらす結果として支持率は上がっている。

何がよくて支持率は上がっているのか?

単に「他に人がいないから」・・・。こんな説明で国民は「納得」しないでしょう。

レポートする側の責任というのは
結果として、支持率が上がっているのは、〇〇▲▲という要因があるからだ(と思われる)。
ここを言わないと駄目でしょう。理屈が通らず、支離滅裂であるにもかかわらず、社会に向けて公表する。その無神経に呆れる。

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メディア各社の(もはや「いわゆる」である)「世論調査」をより信頼性あるものとするには、調査側が恣意的に質問を設定しては駄目だ。

そもそも、日本に生活している人であれば『モリ・カケ騒動には納得していますか?』とか、『財務省のS前長官不起訴には納得していますか?』とか、そんな特定の質問のされ方をすれば『納得はしていない』と回答するだろう。当然の反応である。聞かなくともよいのだ。小生だって、納得はしていない。

客観的な世論を把握したいと思うなら、たとえば以下のように質問することだ。

以下の事項の中から関心をもつ五つの事項を選んでください:
□ 1.働き方改革(裁量労働制、高度プロフェッショナル制度を含む)
□ 2.消費税引き上げ(2019年10月実施予定)
□ 3.待機児童問題
□ 4.人出不足と賃金動向
□ 5.カジノ法案(IR)
□ 6.モリ・カケ騒動(政府の説明、S前長官不起訴を含む)
□ 7.北朝鮮の非核化
□ 10.北朝鮮による拉致被害者問題の解決
□ 11.対アメリカ外交
□ 12.対ロシア外交
□ 13.対中国外交
□ 14.イギリスのEU離脱(BREXIT)の経済的影響
□ 15.従軍慰安婦問題の解決

事項1を選んだ方は、現政権の取り組みをどの程度評価するかをお答えください:
1.高く評価する
2.評価する
3.評価しない
4.まったく評価しない
5.評価については判断が難しい

事項2から15まで同じ選択肢を設ける。

最後に、次の質問を置く:
あなたは安倍政権をどの程度支持しますか?
1.強く支持する
2.支持する
3.支持しない
4.まったく支持しない
5.支持・不支持いずれでもない

この間に、支持政党を質問しておくことも必要だろう。

最初の項目リストはランダムに並べるべきである。また、その時々で列挙する項目、並び順は更新する方がよい。

これでも、個別の回答と結果としての支持率とが論理的に整合しないケースが多数発生すると予想される。アンケート調査をすれば、個別のケースでノイズが混入するのは避けがたい。故に、集計して統計的に大づかみするのである。

要するに、国民は何に最も関心をもっているのか、どんな問題を解決してほしいと最も願っているのか? その願いに対して現政権の取り組みは評価されているのか、どうなのか?これらを調べることが「世論調査」でないとすれば、一体なにが「世論調査」になるのだろうか?

もちろん何をどう聞いても、『これも世論だよね』という人はいつでもいるものだ。日本ハム・ファイターズ対ソフトバンク・ホークスの試合を観に、札幌ドームに出かけていって、自分の好きな1塁側内野席に座って『ソフトバンクのファンなんていなかったよ』と。これもまたファイターズ・ファンの多さを知るデータといえばデータなのだ。

***

ホント、勉強というのはするべきものだ。『知は力なり』ではない。『知こそ力なり』というべきだろう。『神よ彼らを許したまえ、彼らは何をしているか分からないのです』。この言葉は何もモームの名作『人間の絆』に限らず、近代小説に何度も登場するバイブルの古言である。

聞きたいことだけをきいて、説明できない結果が得られているにもかかわらず、説明しようとする努力をせず「こうなりました」と紙面にそのまま掲載するのは、実に無責任であり、最近年の日本国内のマスメディア企業を象徴しているようだ。

その理由は、基本的な知識・学問的蓄積・交友範囲をもっていない人が、報道の前線にいるからだ(と思われる)。

納得できないのは安倍政権についてばかりではない。国内のメディア企業が実施しているいわゆる「世論調査」もまた納得できないのだ、な。


2018年6月16日土曜日

『人生、四時あり』よりは一日にたとえるほうがシックリくる

吉田松陰の『留魂録』は今なお読む人が多い。特に以下の下りは有名だ。
十歳ニシテ死スル者ハ十歳中自ラ四時アリ
二十ハ自ラ二十ノ四時アリ
三十ハ自ラ三十ノ四時アリ
五十 百ハ自ラ五十 百ノ四時アリ
十歳にして死ぬものには、その十歳の中に自ずから四季がある。二十歳には自ずから二十歳の四季が、三十歳には自ずから三十歳の四季が、五十、百歳にも自ずから四季がある。
長寿に恵まれる人、恵まれない人、それぞれにその人の人生には春夏秋冬の四季があるものだ。

小生、これが気に入っていて、亡くなった両親の歩んだ人生にも当てはめては、自分の人生と引き比べたりしてきた。

最近は、人生を一年にたとえるよりは、むしろ一日に対応させる方がシックリ来るようになった。三十余年、一夢の如しと来れば、人生ほんの一日とみるのが自然な実感に違いない、

間もなく嫁さんを迎えようとしている下の愚息は、朝食をとり、朝一番の仕事をこなしたあと、一日の見通しを考えめぐらしている午前10時頃だろうか。

「仕事」からは解放されつつも、まだ非常勤で特定の仕事を担当し「データ」だ「分析」だなどと言い続けている小生などは、その日の片づけをしている午後5時前だろうか。

そろそろ帰宅し、夕食は何か、食後の憩いの一刻をどのようにして過ごそうかと、楽しみにしながら考えている。そんな頃だろうか。

人生暮六つ。六つの鐘がなれば「仕事」とやらは完全に足を洗って清浄の毎日を送りたいものだ。その昔、先輩と『下半身はいかに泥にまみれようと、水の上は美しい花を咲かせる蓮のように生きたいものですネエ・・・』と、そんな快談をやったものだが、そろそろ実行できる齢になってきた。

2018年6月13日水曜日

中国の夢、日本の夢、アメリカにとっての理想型?

米朝会談は一場の政治ショーであった、という向きもあるが、非核化で合意という根幹だけは確認された。平和体制構築(=朝鮮戦争終結)への歩みが米朝で確認された。米朝で戦争終結への意志が確認されれば、中国も加わり、正式に戦争終結文書署名も見えてくる。その第一歩を刻むための米韓共同軍事演習の停止を大統領は発言した。さらに長期的には在韓米軍縮小・撤退の可能性までが口の端に出た。小生思うに、この点が最も大きい。

◇ ◇ ◇

中国の夢(かつロシアにとっても?)は、朝鮮半島から米軍が撤退することである。この点はほぼ自明。

ということは、非核化された北朝鮮は中国の保護下に入り、大韓民国はアメリカとの繋がりが強いにせよ、最終的には朝鮮半島を統一する連邦国家(?)に参加するという方向に踏み込んでいくだろう。これも王朝時代の中華文明圏再興の一環である。

では、その時点で中国はアジア文明圏全域から米軍が撤退することまで求めるか? 

日本には強力な米軍基地が散在している。日本はアメリカと軍事同盟を結んでいる。中国にとって(ロシアにとっても)それは邪魔である。この体制がある限り、ロシアは日本との北方領土交渉にまともに応じることはない。ロシアが北方領土交渉にまともに応じないのは、第2次世界大戦終了とその後の冷戦、米ロ対立を起源としており(いやもっと遡れば、19世紀から続くアングロサクソンとスラブ間の相互不信の歴史を源流とするもので)その強固なことは「岩盤」どころではない。

日本の夢は「一国独立」していた明治維新直後の状態に復帰することかもしれない。幕末から明治にかけて、日本が近代化に取り組み始めた当初、日本は100パーセントの主権国家であった。なるほど法制面での未成熟から関税自主権の放棄、領事裁判権の承認などを余儀なくされた。この不平等を日本人は恥とした。が、それでも日本は経済的に発展できたし、日本国内に外国の軍隊は駐留してはいなかったのだ。日本が近代化を目指した根源的動機は尊皇攘夷であった。三つ子の魂、百までである。日本国内の米軍基地をホンネでは嫌悪している部分が日本人の深層心理には隠されている、と。そう観ることも(ひょっとすると)可能かもしれない。

ならば、中国の海上覇権確立、アメリカ排除に悪ノリして、日本も米軍撤退を求めるか?明治初年の原状に戻って「一国独立」して、大国ロシアと交渉し、超大国アメリカ・中国とも100パーセント対等の立場で外交を進めるか? それだけの覇気を持てるか?
◇ ◇ ◇

しかしながら、中国は自国の拡張戦略にとってアメリカが邪魔であるにもかかわらず、日本から米軍が撤退する状況は望ましくないと考えるに違いない。

要するに、これは中国にとっての二択になる。

  1. 米軍が日本国内に駐留し、日本が中国にとっての軍事的脅威になる可能性を摘む。これは中国伝統の「夷を以て夷を制する」という戦略である。
  2. 米軍が日本から撤退し、日本が核武装で代行する。「代行する」というのは、アメリカの利益に沿って引き受けるという意味になる。
結局、中国にとってより安全なのは、日本かアメリカかという二択である。

日本の核武装路線はアメリカも認容しようとする見方が出始めている。欧州もそうだ。何と言っても、第二次世界大戦が終わって既にもう73年がたっているのだ。

その73年の間、日本は中国の軍事的脅威には一度もならなかった。アメリカが中国の海上覇権確立を妨害しているといって、73年間続いた安全保障システムを中国が自ら崩すのかといえば疑問であろう。また、アメリカは日本との軍事同盟を(絶対に)放棄しないだろう。日本の核武装をまで認めるならばよけいにそうである。中国もそれは分かっている。もしそうであれば、1+1よりは、1だけのほうが良いに決まっている。

もちろん、日本が核武装し、それを契機に日米安保という「くび木」から脱するという事態も絶対にありえないとは言えない。しかし、これを実現するための外交戦略があるとは考えられない。奇跡のような曲芸でしか可能ではあるまい。ま、一寸先は闇ではあるのだが・・・

◇ ◇ ◇

いずれにしても、日本はアメリカが統制してくれている。管理コストはアメリカが負担する(原資は日本のカネが相当あるのだが)。中国は経済的利益だけを得ればよいのである。中国は自国の東方をこうみているはずだ。

中国が太平洋の西半分をとりたいとさえ思わなければ、日本が中国の脅威になる可能性はない。どの線で中国は満足するか?アジアの国際関係のカギ、即ち平和のカギはアメリカではなく、まして朝鮮半島でもなく、中国の夢がどこににあるか。この点にかかっている。




2018年6月12日火曜日

「モラル」を持ち出すのは解決能力も説明能力もない証拠

今日は一日、どこの局も「米朝会談」、「朝鮮半島」で一色だろうと思っていると、果たしてカミさんが好んでみているワイドショーもシンガポールから現地中継している ― もちろん、「こんな様子」ですというレベルだ。

何か分かった時点で、臨時に切り替えてそれまではプロ野球の話をしてもいいんじゃない、という風に思うが、このノリは五輪や箱根駅伝を中継する狙いと同じである。何であれ、すべてはニュースになるわけだ ― そのうち『1+1=3と定義するまったく新しい数学が自動運転技術に応用できることが確認されました!』などという話題もTV画面をにぎわせるだろう。「ヘエ~~ッ」という反応になるかもしれない、・・・フェイクではあるが。

新聞はどうなっているのだと、道新をみると『G7サミット 無力化を食い止めたい』と。ホホ~ッと思い本文を読むと
それにしても目に余ったのがトランプ氏の身勝手な振る舞いだ・・・日本を含む6カ国は今後も連携し、G7の意義をトランプ氏に訴え続ける必要がある。
国内の政権に対しては、率直を通り越して、露骨ともいえるほどの倒閣運動を展開できるのが日本の(ま、日本だけではないという見方もあるが)新聞である。

トランプ大統領がやっていることを、熱く支持する階層がアメリカ国内に(今でも)いることは数字が示すところであり、事実として認めるほうがよい。故に、トランプ氏は目に余ると言っても全く意味がないわけで、そんな行動をとってほしいと願望しているアメリカ国内の「分離主義者」を非難するべきなのだ。そもそも「目に余る」と言っておきながら、何もアメリカを非難する言葉を書いていない。トランプ大統領を批判するなら、ホスト国のカナダ、仏独の側に明確に立つべきだ。と同時に、融和的な意見を述べ続けていた(と伝えられている?)安倍首相をも非難するべきであるし、でなければ称賛するべきである。自国の首相はどう振舞っていたか、日本のメディアなら伝え、評価しなければならないことを評価していないところに、不誠実の香りがするのだ、な。ト大統領がロシアをG7に復帰させようと発言した(そうだが)その時、なぜ日本のメディアは「一考に値する」と書かないのか? 英独は反対したそうだが(フランス、イタリアまで反対したとは伝えられていないが)、日本の利益にはかなうのではないのか。この事にまともに触れようともしないのは、メディア企業として極めて不誠実であり、誰のために報道企業を経営しているのか理解できないほどである。

こんな大事な点をスルーしておいて、『その態度、まことに目に余る、言語道断である』とはネエ・・・江戸城中の小役人にでもなったつもりか、と。そう思いました。

主題について分析やロジックを述べず、モラルに訴えて何かを語っているとき、そのホンネは透けて見えるものである。何かの当てがはずれたとき、そんなものの言い方をするのが人というものである。

ヤレヤレ、またメディア批判になったか・・・メディア産業はインターネットの都合の良い部分をこのところ報道素材にしているが、最近はメディア産業がネットの中でしばしば標的となり炎上している。火遊びは火事のもと。それほどの時間がたたないうちに、フェイクニュースに引っかかって大失敗を演じ、国内メディア産業が激震に揺れ、壊滅状態になる。そんな未来が(そろそろ)みえてくる予感がするのだな。真面目な努力を惜しむといつかは失敗して没落する。浮世の理(ことわり)だ。剣呑、剣呑・・・


2018年6月9日土曜日

意味のないキャッチコピーの一例

寺田寅彦の随筆は絶品揃いなのだが、その中に「科学的認識」と「語呂合わせ」との違いを話題にした作品がある。正確な文章とは違うかもしれないが、たとえば語呂合わせの文章と言うのは『▲▲虫然り、〇〇鳥然り、この理(ことわり)、何ぞ人に当てはまらざる』といった風の文ではなかったかと記憶している。昆虫や鳥類にすら共通に観察される行動特性だからといって、ヒトにも同種の特性が認められるかといえば、個人差もあるわけであり、データに基づく科学的検証が必要になる、と。そんなことを寺田寅彦は述べていた。

言葉としての力強さは、その言葉に説得力を与えるかもしれないが、説得力があるからといって、それが真実かどうかはまた別のことである。そうとも言えるわけで、エッセイストというより科学者であった寺田寅彦の面目が躍如していると感じた個所である。

× × ×

新聞広告を見ていると、以下のような文句が目に入った。
国宝は国のものではない。私たち国民のものである。
思わず「そうだよね」と賛同したくなる言葉だ。

しかし、よく考えるとおかしなことを言っている。

もし「私たち国民」というのが、いま現に生きている現世代の日本国民という意味なら、まったくもって無責任な思想だ。

国宝とは遥か昔の祖先が創造したものを、世代から世代へと継承して現在に至ったものである。私たち国民のものだと言っても、私たち国民が自由に改造してよいわけではなく、ましてや希望があるからといって勝手に売却してよいわけではない。そんな勝手なことをすれば、後の世代の日本人が苦労をして原状に戻そうと力を尽くすに違いなく、愚かな行為をした現世代の私たち国民が犯した誤りをずっと伝えていくことであろう。

自由処分権を私たち国民は持っていない以上、国宝は私たち国民のものではない。

継承されてきたという事実だけがある。継承すること自体を愛するのは、駅伝でタスキをつなげることを何よりも大事にする心理に通じるかもしれない。

もし「私たち国民」というのは、過去・現在・未来にかけてのすべての世代の日本人全体を指しているのだとすれば、それこそ「国」という言葉で示されるものだ、というべきだろう。時代が変われば無常に変わっていく政府や行政機構をさして「国」と言うべきではない。だとすると、「過去から未来へとつながる日本人」を「国」と考えるべきで、時代を超えてつながる日本人とは別の何かを「国」と呼ぶとすると、一体それは何を指すのかがサッパリ理解できない。

国宝とは、文字通り国の宝である。いま生きている私たち国民の宝ではない。いま生きている誰のものでもない。(あなたが日本人であろうと思うなら、日本の)国宝は大切に守って後の世代に伝えていかなければならない。

こういうべきだろう。現世代が担当する実働40年を無事完走して、前世代から受けた資産を次世代に引き継ぐことが責任というものだ。というか、こんなことは普通の人にはわかっている当たり前のことだ。

語呂合わせがいいと思って思いつくキャッチコピーは、中身はゼロのことがままあるので、要注意。ずっと昔に寺田寅彦もこの危なさに気がついていた。




2018年6月7日木曜日

これまた既稿リマインダで十分: 朝鮮半島と日本

米朝会談が近づいてくるにつれて、ネットでは色々な意見が飛び交っている(すべて無料で公開されており、内容やレベルは玉石混交だ)。

多いのは、<長期的にみると>南北朝鮮は融和を進め、最悪の場合には核武装した統一国家が朝鮮半島に出現し、日本を敵視するだろう、と。故に、日本も米国との軍事同盟を深化させるとともに、自衛のための軍備に資源を割かざるを得なくなる。こうして日本も<普通の国>になっていくだろう、と。そんな見方が多いようだ。

◇ ◇ ◇

小生、個人的には「国防軍」という組織を日本国が保有するのは当たり前である、と。これが基本的な立場だ。

ただ、軍事力を何のためにもって、いかにして使うのか、という点については国民の側に相当成熟した世界観、政治観がなければならない。これが最重要なポイントだと思っている。

以前の投稿から:
中国は軍事力を強化しているが、軍事力は使えば失敗ともいえる政治ツールである。明治維新期の長州人・大村益次郎は「軍はタテに育成して、ヨコに使うものだ」と言ったそうだ。日本に対する中国の軍事的圧迫は、日本の資源を経済から政治・軍事に誘導することが一つの目的であり、よりソフトな国際的広報戦略の効果を強化するものである。その裏面で、というか同時に、中国政府にとっては痛い過去の履歴や人権への国内政治姿勢から、日本による中国侵略の記憶へと世界の目を転じさせるマスキング効果を引き出している。つまり中国は戦わずして日本を隘路に導こうとしているのだ、な。
日付:2014年4月1日

大村益次郎のように「軍は単純に武力行使をするために持つものではない」という戦略眼を日本政府の担当者だけではなく、日本国民ももつことが成功へのカギであって、そうでなければペラペラとした好戦意識から展望も覚悟もなく戦争を繰り返した戦前・日本の大失敗を再び繰り返すことになるのは必至である。

俗にいう『気違いに刃物』とはしないことが最も重要。『馬鹿と気違いは紙一重』ともいう ― まあ、『大賢は大愚に似たり』とも、『天才と気違いとは紙一重』ともいうので、この辺の政治スタンスは実に微妙で、政治芸術(アート)とも言えるかもしれない。(この辺り、不穏当な表現はご勘弁)

いずれにしても、日本が頼りにしているアメリカは、日本の国益ではなく、アメリカ人の国益のために、(今は)日本に協力しているのである。韓国は韓国人の利益のため、中国は中国人の利益のために活動しているのも当たり前。日本人が自己の共通利益を追求したいなら、日本政府が努力するしかないわけだ。相手が国交未回復の北朝鮮であれ、あるいはまた最悪のケースであるという統一朝鮮になるにせよ、自分の問題を解決するには自分でやるしかない理屈である。そのための戦略があるなら実行する。なければ解決を諦める。ロジックは本来は実にシンプルだ。

◇ ◇ ◇

大体、「最悪のケース」などと文章に書くこと自体が、実に「間抜けな表現」だ。最悪なケースにはならないように外交努力を尽くせ、というのが現行憲法の趣旨である。外交努力を尽くすより前に、「武断主義」などと口にして、国家戦略を勝手気ままに変更したことが戦前・日本の軍国主義が大失敗した根本原因である。

ここでも既稿を引用しておくか:
日本が北朝鮮を承認することのプラスは何か?検討してもよい時機ではないのか(というか、もう検討はしていると思うが)。
東アジアのありうべき状態は「現状固定の相互承認」のみである(と思われる)。朝鮮半島の現状を固定し、平和共存を目指す方向は、日本にとっては確かにプラスである(どのようなプラスであるのかは多面的だが概ね自明である)。
朝鮮戦争開始と休戦までの期間、ずっと日本はアメリカの占領下にあった。朝鮮戦争の結果である半島分裂は日本の責任ではない。が、明治以来の外交史を振り返ると半島の現状に日本は相当の責任を負っている。日本は日本で選択すべき朝鮮半島外交があるだろう。
イギリスもドイツもカナダもオーストラリアも北朝鮮を国家として承認している。北朝鮮の存続を認めている。国家としての承認は平和を築く交渉の第一歩である。もちろん日本による北朝鮮承認となると、東アジアにおける波及効果は(特に韓国に対しては)かなり大きいに違いない。が、日本はまだ使っていない外交上のリソースを有していると考えるべきだ。
日付: 2017年8月31日

「日本には自国を守る能力も制度もない」と指摘するのもナンセンスで無責任。「米朝会談で朝鮮戦争終結宣言が出される可能性があり、拉致問題未解決のまま、日本は北朝鮮と国交を回復できず敵対関係が続く」という予想もナンセンスで無責任。

問題を認識しているなら解決のための方策を考えればよい。考えた方策を日本が実行すればよい。その方策とは「軍事力行使」ではなく、「外交戦略」を指すということが、戦前の大失敗で得た教訓だ。

その教訓を踏まえたうえで必要ならば、「国防軍」は持って理の当然だろう。これが小生の個人的立場だ。

◇ ◇ ◇

が、もしも自衛隊を拡大再編成した国防軍をもつとなると、現在の日中関係は本質的な変化を余儀なくされる。これもまた必至である。

どちらがプラスか、マイナスか?故に、賢明であるためには、何が国益であるか、国民の側に共有化された理解がなければならない。もし、それがなければ外交戦略などは立案も実行もできず、外交すらもできないならば、軍事力などは持たない方が世界平和のためだ。文字通り『気違いに刃物』になる(不適切な表現、申し訳ない)。

今のままでいい。

モーツアルトの歌劇『魔笛(Die Zauberflöte)』の中で、鳥人パパゲーノが王子タミーノとともに魔界(?)へ入り王女パミーナを救い出すかどうかで迷っているとき、頑張れば可愛い女の子とめぐりあえるぞと言われた。迷うパパゲーノは『怖いからやっぱりやめる、今のままでいい』と言う。

今のままでいい、というのも立派な選択なのだ。

明治政府は幕末の尊皇攘夷思想の嵐の後にできた政府であった。そんな政府が軍事力を持った。その果てに軍の暴走が起こった。国の制度というのは、制度が出来た時の思想を反映するものだ。『三つ子の魂、百まで』とはこのことだ。

いざ日本国が危機に陥り、危機に対応するために軍事力をもって、国防の備えをする。多分、こんな道筋をたどっていくのだろうが、これでは朝鮮半島の危機に備えるという点では幕末から明治にかけての行動パターンと同じではないか。

軍事力というのは平和な時代の中で、一定の外交戦略の下で、着実に育成していくものだ。そうでなければ、実に危険な武装集団になるだけの話である。

ズバリ言うなら、今のような劣悪かつ低レベルのニュースキャスターやワイドショーが社会に影響を与えている中で、よりハイレベルの軍事力をもつとしても、日本政府にも日本国民にもその実力集団を満足にマネジメントするなどというのは出来ない、無理だ、これに尽きるのだ、な。ここが不安に感じられつつアジアの近隣諸国、アメリカ、豪州、等々、世界は気がかりな目線を日本に対しては向けている。そう思っているのだ。

2018年6月6日水曜日

一言メモ: またセクハラ・・・

ブログとはWebLog。つまり日記だ。

外務省ロシア課長が停職9か月、と。懲戒理由は「セクハラ」だという。「強姦」でも「傷害」でも「迷惑行為」でもない。「万引き」でもない。具体的内容は個人情報を含むから言えないと。

絶句・・・

対ロシア外交の前線部隊長であるロシア課長が停職になることの損失は国民全体に及ぶ。その理由は『いやなことを言われた(された?)』と誰かが訴えた、ただそれだけ。

小生: 相手に嫌な思いをさせたなら、「申し訳なかった」と言ってサ、謝ればいいんじゃない?何なら1万円くらいの菓子折りもいるかもしれないけど、それで十分だろ? 
カミさん: 10万でしょ! 
小生: そりゃ非常識だ、嫌なことを言われたから金をもうける。そんなことはあってはならんだろ。言われただけなら3千円でもいいくらいさ。 というか、すいません。それでなぜいけないんだ。
カミさん: 仕事をバリバリしていると、謝らないのよ。 気がついてないのかもしれないし。
小生: それで腹が立つってか? 嫌な思いをした女性が出たから、対ロシア交渉に停滞があってもいいのかい?・・・まあ、どんな人だったのか、裏の事情があるのかもしれないし、まったく分からないけどネ。

いまの世相には、ホトホト参りました、ここまで来たか。

公職にある人物の処分理由は具体的に明らかにされるべきだろう。「個人情報」で隠蔽するべきではない。

2018年6月5日火曜日

いまは情報のマーケタイゼーションへの途中なのだろう

森友事案に関する財務省の内部調査が出てきて、それがまたTV画面、新聞紙上で話題を提供している。

まあ、予想された範囲の結論だ。

某検察OB弁護士は『そもそも今回の文書改竄が起訴される可能性は最初からほぼなかった』とネット上で明言しているほどだ。読めばなるほど、と。極めてロジカルである。

省内処分もまあ適当な塩梅だ ― というより、「収賄、職権濫用でもないのに厳しいネエ」と個人的には思う。「役所の官僚が総理や大臣の意志を全く忖度しなければ、そのほうが官僚専制で恐ろしいんじゃないかネエ」とも思う。

***

今日はカミさんが友人たちと趣味の会合をしている。宅内でいつも観ているワイドショーに習慣でチャンネルを合わせている。結構詳細なパネル資料を一晩で(?)作ったのだろうか。細かい話をコメンテーターともども会話しているところだ。

これすべて無料で入手される情報である。今の日本で民放の地上放送はすべてフリーだ(スカパーなど有料衛星放送を除く)。無料である点はツイッターやフェースブック、ブログなどネット情報と同じである ― エッ、TV受像機の購入費を含めればフリーではないと?耐久消費財ストック所与の下で消費者均衡を考えれば民放はタダであるのは容易に理解できる。その後で耐久消費財需要を考えればよい。

そういえば無料のフェースブック・アカウントでアクセスできる情報には悪質なフェイクニュースが混在していたというので、フェイクを流した当事者だけではなく、フェイクを流す場を提供したフェースブックもまた責任ありとして、厳しい批判にさらされた。

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中身のない流言飛語、即ち「フェイクニュース」は経済学でいう「レモン」である。中古車がなぜ安いのか? それは一見しただけでは分からない劣悪な中古車が混じっているリスクがあるためだ。その分、ほぼ新車であっても買い手の評価が割り引かれるというロジックである。1年ともたないと思われるようなボロ車は、当然のこと、買い手の評価はゼロとなり、価格はゼロ、つまりタダになる。実は中身はいい車であったとしてもだ。

最近、目立つ傾向なのだが、既存メディア企業がインターネットで流通している情報を番組中でまとめて、それを「ネットの反応」と呼びながら、便利に活用し始めている。ネットの状況を「世論」と読み替えながら、そこからまたコメンテーターが意見を重ねていき、番組全体として一つの論調が醸し出されてくる。そんな方式が流行りつつある。

自分なら、やらないネエ・・・こんなやり方は。

ネットの情報、特に「解説」という名の投稿は、その多くは裏をとらずに流されている。この点は自明だろう。ネットを通して情報をとるのは情報収集側にとっても極めて低コストである。低コストである裏側をみないといけない。少なくともネット経由の情報は根拠があるのかないのか不詳である。中にはデマもある。悪質なフェイクもある。野良の中古車市場と同じである。故に、ネットを流れる情報はフリーになる。価格はつかない。価格がついているのは広告媒体としてである。広告の出し手がネット情報のコストを負担する。広告費の出し手が対価を支払うのは多数の人間がみるからだ。多数が見るので媒体価値がある。何が書かれているかというコンテンツはユーザーにとって無料である。ユーザーが支払うのは何かを買う時(e-Commerce)だ。商品には価値がある。コンテンツとしては価格ゼロの情報をストーリーの鍵に利用して、放送内容、報道内容を編成する。故に、放送自体の価格もゼロになる理屈だ。費用はネットと同様、広告の出し手が払う。

民放とインターネットと、ビジネスモデルの論理は完全に同一なのである。双方は100パーセント、競合関係にある。であれば、長期的には同質化していく理屈だ。

この2、3年のマスメディア、特に民放は、根拠不詳の流言飛語を拡声スピーカーで社会に流している、と。厳しく言えば、そんな表現も可能かもしれない。

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真の情報には価値がある。価値があれば価格がつくのがロジックだ。

既に新聞各社はデジタルコンテンツに対価を付け始めている。この方式が情報市場の常態になっていくのは理の当然だ。が、先日まで予約購読していた日経を思い出しても、無料情報と有料情報とで識別可能なほどのレベル差を感じなかった。これが正直なところだった ― 保存機能やEvernoteとの連携サービスなど周辺サービスがつくとはいえ、情報コンテンツとは別の事柄で本質的ではない。

良質な情報(=カネと優秀な人材を投入して得られた情報)には価値に見合った価格がつく。当然の経済原理にしたがってネット情報が再編成されていく。今後将来の動きとしてはそう予測されるのだ。なぜなら需要が既に存在するからである。需要に応えていくためのビジネス側の努力が社会の進歩を現実のものにする。この論理だけはいまなお、というより今後もずっと、当てはまる。

信用ある業者が中古車フェアを開催すれば、その分、売値全体がアップする。フェースブック本社で開発中の人工知能(AⅠ)が、あらゆる情報を識別、フィルタリングして、信頼できるニュース情報のみを自分のホーム画面に表示してくれるという、そんなサービスが利用可能になれば、小生は喜んで年会費3千円程度(≒Amazonのプライム会員会費)を支払うだろう。もっと払ってもよい。1万円でも払うだろう。それでも新聞購読料(年間数万円)よりはよほど安い。それでフェイクを読んでミスリードされる無駄を避けられるなら安いものだ。情報の市場化(マーケタイゼーション)は新聞の普及で世界は既に経験済みである。今後はインターネット上でこの動きが格段に進むだろう。20年もたてば情報メディア産業の均衡状態がどのようなものかが分かるだろう。

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高い価格を支払う人たちがより良質の情報にアクセスできるような社会がいずれ到来するだろう。そうなった時に、現在の民放が放送しているような無料のワイドショーをみる人たちは、観ているというだけで恥ずかしい、と。無料イコール劣悪という経済的な常識が改めて確認されているだろう。どうやらそんな世相になっていくのではあるまいか(現在もすでにCS有料放送があるわけで、そんな世相になりかかっているとも言えるが)。最近2,3年の民放の「ワイドショー」はその劣化と限界感が露わである。

メディア産業において、民放キー局に限れば、リ・ブランディング(Re-Blanding)戦略が生き残りのためには不可欠だろう。小売市場において、デパートという業態に限れば、Re-Positioning戦略が生き残りのためには不可欠であるのと、まったく同一の理屈である。

2018年6月4日月曜日

謝罪頻度が責任意識と解釈できるとすれば

マスメディアが日大関係者や紀州のドンファン不審死関係者をはじめ様々な人物を取り上げながら、TV画面で、あるいは紙上で、多くの人や組織を批判したり非難している。こんな様子が最近は世のならいとなってしまった。

まあ、ずっと昔からこうしたことは確かにあった。が、いわば「市井の一私人」が一日中張りこまれるようにメディアの話題になるという、そんな状況はあまりなかったと覚えている。現代社会特有の現象ではないだろうか?そもそもずっと昔の民放は、ドラマやバラエティ、歌番組、スポーツ番組が主であり、ニュース解説やワイドショーというジャンルはなかったように記憶している。ニュースは純然たるニュース番組だった。

***

それはともかく、

社会の現状、というか「世を騒がせている」ことに対する責任意識は平均的な謝罪頻度(明らかな謝罪に撤回・お詫びなども含む)で測られるかもしれない。だとすれば、以下のような順位になるのではないかと(何となく)感じるのだ、な:
  1. 民間企業・団体(記者会見で謝罪、その後に引責辞任するのはおなじみの風景だ)
  2. 個々の議員(発言の撤回やお詫び、更には辞任もまた日常茶飯事になった)
  3. 地方自治体(知事や市長は謝るというより辞任している)
  4. 国家機関(総理や閣僚は遺憾の意をよく発言しているし辞任もよくある)
  5. 報道機関(公開された謝罪、遺憾、辞任などは滅多にない)
厚労省が杜撰な統計調査の件で大臣が謝罪したことは記憶に新しい。財務省についても然りだ。しかし、(たとえば)「財務次官セクハラ事件」で世を騒がせたテレビ朝日が会社として「謝罪」をした記憶はない。あの時も、主として責められるべきは暴言を吐いた次官のほうであったが、取材記者の側に責められるべき点は全くなかったのかといえば、小生は盗聴・盗撮は原則違法と考えているので、大いに責められるべき点があったと思っている。なので、次官が職を辞任したあと、テレビ朝日が公式に謝罪していないのは、やはり無責任の表れではないか、と。そうみているのだ。

長期的に省みて、謝罪の頻度は上のような順位になるのではないか、というのが小生の印象だ。

地方自治体や国家機関の公式な謝罪が少ないのは、それが権力機関であり、一度下した沙汰を覆すなどはあってはならないとする「無謬の前提」が作用しているのかもしれない。また、権力機関であるが故の監視や統制が勝手気ままな行為を抑え、結果として謝罪に追い込まれる事態が少ない、と。こんなロジックかもしれない。

では、報道機関による謝罪が非常に少ないという点はどう解釈すればいいのか?

メディア産業は何度も投稿(たとえばこれ)しているように、狙ったターゲットに対して社会的制裁を加えることも可能なほどの実質的な権力機関である。と同時に、それと比例した監視や統制が制度化されているわけではない。自ら「報道の自由」を主張してもいる。統制なき自由・・・かつ謝罪頻度の低さ。これはそもそも謝罪を意識すること自体が少ないということではないか。基本的に無責任な権力行使者ということではないか。そんな結論になるのだな。

メディア産業の在り方について投稿することが増えているが、こんなアプローチで考察しても、やはり近年のメディア企業の経営行動は多くの問題を含んでいる。ここでもそれが確認された、ということなのだろうか。


2018年6月2日土曜日

今日はリマインダーが必要だと思ったので・・・

『そのほう、世を騒がせしこと、重々不届き、その罪許し難し。よって▲▲遠島を申し付ける』というのは時代劇定番のセリフだが、日大常務理事・U氏には「遠島」ではなく、役職剥奪(形式的には辞任)のうえ自宅待機が命じられたということだ。

2秒間の遅れで「あり得ないファウル」になってしまったアメリカンフットボールの1プレー、その後の2プレー、3プレーが原因となって、ついにここまでに至ってしまった。これが民間企業で発生し、自分が当事者であったかもしれないと思うと、つくづく現代の世の中は怖いと感じる。

何度も投稿しているように、<計画された傷害意図>があれば、それはもはやアメリカンフットボールではない。と同時に、アメリカンフットボールという競技は決して危険なスポーツではないとも関係者は語っている。日大アメフト部だけは格闘技だと認識していたのだろうか。

いまだに分からないことは多い。「分からない」という認識が非常に重要だと思われる。

では最近の投稿から:
昔から「因果応報」という言葉があるが、まあ同じような意味合いだ。人間の行為には行為に応じた結果がもたらされるという確信がなければ、人たるもの、人間社会をどう信頼すればよいのだろうか。 
故に、被害を超えた報復が加害者に対して結果として社会で行われてしまえば、被害者は単なる被害者としての立場にいつづけるのは難しくなるという理屈になる。 
具体的に書いておく。相手に嫌な思いをさせたのなら、自分もまた嫌な思いをさせられても仕方がない。相手を殴ったのなら自分もまた殴られても仕方がない。人を殺害すれば、自分の命を奪われても仕方がない。3千5百年余り昔のハムラビ法典に提示されている「目には目を、歯には歯を」はフェアネスの原初形態である。これによって過剰な制裁が禁止され止めどもない復讐が不正義となった。正義がフェアネスとして表れるという"Justice as Fairness"の観点は現代に生きるロールズよりも実はずっと遡り、ソロモン王の昔まで辿ることができる。 
已むに已まれぬリベンジもフェアであることが求められるのである。嫌な思いをさせられたから相手を破滅させるのは不当である。もしこれをやれば過剰制裁となる。過剰な報復を望む被害者は既に加害者に転じていると解釈されても仕方がない。被害者に同情する社会が同じことを望んでも同罪である。小生はハッキリとこう思うのだ、な。
日付:5月7日

これはアメフト騒動に関してではない。セクハラ騒動についての投稿だ。
今回のルール違反に憤りを感じ、番組でもとりあげてきたマスコミ各社は社会の中で果たすべき役割を果たしたと思う。が、例によってマスメディアは恒常的なパターンに逆戻りをして、非常に非知性的な、浅堀りの議論を反復的に繰り返し、問題解決に向かう日本社会の足を引っ張り始めている。そう思うことが(またしても)増えてきた。 
なんでいつもこうなるんだろうねえ・・・と。不思議である。と不思議に思いつつ、小生の個人的予想としては予想ラインにそって(順序の前後は生じているが)進んでいるようで、先日の投稿のとおりに、マア、マアなっていくのではないかと今はまだ思っている。
日付:5月28日

***

先日の投稿ではU氏の辞任は10月頃ではないかと予測していたが、ずいぶん早くなった。コーチ全員の氏名と顔がネットに公開されて攻撃のターゲットになるだろうとも予測していたが、危険を察知したのだろうか、それより前に主要なコーチから順に日大から離れつつあるようだ。人間行動の予測は、予測される人間自体が予測に応じて、行動を変えるために、中々そのとおりにはならないものだ。マクロ経済予測がなかなか的中しない理由に近いものがある。

スパルタ教育をやった、傷害行為となるプレーを強要した、コミュニケーションをとろうとしなかった等々、仮にすべてが事実であるとしても、結果としてはタックルを受けた相手は試合に戻った。タックルを強要された選手は心に傷を受けただろうが、未来のチャンスをすべて奪われたわけではない。

こんなことを言うと、『福島第一原発事故で死者が何人出ましたか?毎年、交通事故で何人死んでいると思いますか?何人の人が自ら命を絶っていますか?』という時と同じく、『事柄の重要性がわかっちゃいない!』と集中砲火の標的になりそうだ。こんな現象が確かに現代社会では増えているのだが、小生、<メディア性過敏反応症候群>と呼んでいるのだ。適切なネーミングではあるまいか。何だか神経性の下痢と便秘をくり返す<過敏性腸症候群>を連想させる。

マスコミ主導の社会的制裁は、一時的に正しい方向を向くこともあるが、その力は賢明な人に制御されているわけではない。興奮したスズメバチ集団にも似ていて、攻撃したい方向へと暴走を繰り返し、少しでも刺激すればターゲットとなり、(社会的)生命を失うまで攻撃をやめようとしない。

以前の投稿でも記しておいたが、社会的制裁を求める現代社会のマスメディアは制度的な「権力」と並び立つ「実質的権力」として機能している ― 行動ではない、そこに責任ある意思決定者はいないからである。

政府と同様に民主的な統制を工夫しなければ、傷つく人がこれからも数多く発生するだろう。

ここから先は、被害者が加害者へと転じる可能性が高い。