イギリス人とフランス人とドイツ人の性格の違いを伝える面白い話があるんだよ。どこかの大学の最終レポートで先生が動物の「象」に関するレポートを書いて出すように言ったんだって。教室にはイギリス人もフランス人もドイツ人もいたんだけど、イギリスから来た学生は『インドの象狩りの現状』っていうレポートを出したそうだよ。で、フランス人は『象の恋愛と生殖行為に関して』ってテーマで書いた。ドイツ人は『象の体内諸器官の構造に関する哲学的論考序説』という標題の大論文を提出したって言うんだよ。
東京オリンピックが開催された昭和39年の当時、父はまだ30台であったが、社の上層部に何かの縁で気に入られたのだろうか、新規事業調査を名目にヨーロッパからアメリカを回ってきたことがある。まだ外貨持ち出し制限があった頃の話だ。ドイツのウィースバーデンに所在する名称は忘れたが、父の一行が訪問した企業は、その後も再訪する機会があったらしく、しばらくの間、家の中にはドイツから買って帰った土産品が幾つか飾られていた。そんな趣味を持っていたので、小生が話した上の寓話は父も非常に気に入ったらしく、『うん、そんなところは確かにあるナア、ある、ある』などとご満悦だった。多分、ドイツ人と意見交換をするときに、先方の粘っこい、話しが遅いうえに理屈っぽい気質に辟易とさせられていたのかもしれない。よく言えば、理路一貫して話に矛盾がないというところでもあったのだろうが、事業化できるのか、儲かるのか、どうも要領を得ないという感覚もあったのかもしれない。ま、その事業調査がどの程度まで有効であったのか、子供であった小生には今は知りようがない。
いま思い出してみると、イギリス人の発想は基本的に具体的であり、いかにも経験に基づく知識を重視する英国流帰納主義を伝えている。それに対して、フランス人のレポートには意表をつく着目によってそれまで見過ごされてきた本質を明晰な形で露わにするフランス流のエスプリが窺われる。そしてドイツ人のレポートからは何よりも論理的一貫性を重視し断片的な観察よりはシステマティックかつアプリオリ(先験的)な形而上学を好むドイツ人の潔癖さが見てとれる。いま両親がまだ健在で、上の寓話を覚えているかとまた話すことが出来れば、実は簡単な話に案外に深いメッセージがこめられていたことにも話が及ぶのではないかと。そう思ったりするわけだ。
そして、その当時は何か下らないとまでは言わないにしても、レベルが低いなあと感じた英国流のファクトファインディングが実は最も健全で、堅実な知識である、と。小生はイギリス人学生のレポートに最も高い点をつける、こんな点にも触れることができただろう。
日本でもブログが花盛りで、たとえばBLOGOSなどを見ると、色々な視点から多事争論的な場が形成されていることがわかる。ただ、概観して思うのだが、そこに公開されている優に過半数の意見は『自分はこう思う』という式の判断なり、判定であって、こんな事実が観察されるというファクト・ファインディングは少数である。
このケースについては自分はこう思うという意見をブログで公開するという行為は、それ自体としては「主張」であるのだが、それには正当性の根拠なり証明がいる。それには数多くの具体例に基づく帰納主義的な、もしくは統計的な発想をとるか、でなければ一般的に認められる大前提から演繹的に結論を導くか、そのどちらかの方法がありうるわけだが、どうも日本国内では「こんな似たケースがあり、その時にはこんな結論を得ていた、その結論を変更するかどうか」という議論よりは、「民主主義は善である」とか「パワハラは悪である」といった大前提を無条件に認めて、あとはロジカルに議論をする、と。そんな構成が非常に多い。
現実の世界では無条件に認められる大前提は本当にあるのかが正に問題の本質のはずなのだが、大前提自体の考察がなされている投稿はネット上にも実は少ないように小生は感じている。ここが徹底的に掘り下げられていれば、ドイツ流の『哲学的論考序説』になるのにネエ・・・と。そう感じることは多い。
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