2018年12月10日月曜日

メモ: これも新語のはず「芸能人」、「公人」

『ビブリア古書堂の事件手帖』シリーズのファンである。最終巻も発売直後に既に読んでしまった。先日、実写版映画が公開されたのだが、地元のシネマフロンティアでは上映されておらず隣のS市まで行かなければならない。雪が降り始めるとそれが億劫だ。まだ観ていない。

ところが昨日、書店の中を歩いていると、読んでいない巻が出ている。パラパラめくってみると、主人公夫婦に娘が出来ているようだ。それで、早速買って読んでいるのだが、その第2話はゲーム本をめぐる話しだ。読んでいくと「スファミ版」などという単語が出てくる。「アアッ、スーパーファミコンね!」と気がつくのに一瞬かかってしまう。小生の家族たちもファンであり、ファイナルファンタジーも一日中やっていたが、その当時「スファミ」なる言葉は子供たちの間でも、TVでも使われてはなかったと思う。

これは新語じゃないかと思うのだ、な。

「新語」といえば「芸能人」。この「芸能人」という単語も、小生の幼少年期にはそれほど使われてはいなかったような気がする。もちろん雑誌『アサヒ芸能』が昭和20年代からあったわけで、「芸能」という言葉自体は存在していた。しかし、「芸能界」も「芸能人」も極々狭い意味付けで使われていた言葉であったように記憶している。

「文化人」でも「文人」でもなく、「芸能人」・・・。確かに昔はなかったと思う。

***

ずっと以前に東大生の「芸能人化」について投稿したことがある。確かに芸能業界の社会への浸透ぶりは甚だしいものがある。知り合いの▲▲さんが、何か役に立つ提案をしたというのでニュースになり、いつの間にか「芸能界入り」をする、本人もその気になっている、というケースも珍しくなくなった。

でもネエ・・・

小生の感覚では映画俳優や女優は芸能人だが、ピアニストや日本画家は芸能人には入れない。まして「芸能界」という単語は広く使われる言葉ではなかったと思う。

一体、この「芸能界」というのは、いかなる「界」なのか?昔からあったのか?

ある日のワイドショーでは「芸能人も公人ですからネ、身を慎まなければなりません」などと吃驚仰天するような言葉も出てくるようになった。

小生の感覚では、絶対にこんな発言はできない、原理的に不可能だと思ってきたのである。

***

俳優や女優なら不倫、離婚、失恋等々、人生のあらゆる悲哀や冒険を経験した方が深い人間表現ができるというものだ。分からない事は表現しようがない。だから人間の表現を生業にしている人は人間修行を名目に諸々の不道徳に挑戦したものである。「これも芸の肥やし」というわけだ。この種のモチベーションは、作家、詩人にも共通する部分がある。特に日本の小説は私小説だから何を書くにも自らの経験の裏打ちが求められていた。リアリティが重要であったわけだ。なので作家と愛人は縁が深い。文豪による不倫もあった。心中事件も何度かある。想像するだけでは当事者の心理描写などできるわけがないのである。

三島由紀夫が『不道徳教育講座』を作品化したのもムベなるかな、である。「教師をバカにすべし」、「人に迷惑をかけて死ぬべし」、「弱いものをいじめるべし」等々、真の意味でこの現世を生きるというのはどういうことなのか。真剣に考える立場に立てば、浮世を無事に生きることを第一の願いとする凡人たちを縛る倫理・道徳は、それ自体に価値があるかどうかを疑ってもよいのである。いや、何事も疑わなければ本質には迫れない。

なので『芸能人も公人ですからネ、身を慎まなければなりません』という発想は、小生の感覚では<あり得ない>というわけである。

***

この世界の本質を理解しようとすれば、非日常に正面から向き合うことが不可欠だ。本質に迫るという点では、音楽、美術も同じである。やはり平凡なモラルを杓子定規に当てはめて理解しきれない人物が多い。

ノーベル賞級の科学者には凡人にはついていきかねる個性をもった天才が多いが、この道理は、真理を探究する人に限らず、美を追求する人、人間存在の本質を極めようとする表現者など、超日常世界に従事する人には共通してみられることではないだろうか。

こういう人たちは世間でニュースになりやすい。ニュース舞台に登場する人は全て「芸能人」。そう呼びたいなら呼べばいい。

しかし芸能界が日常世界に浸透すればするほど、芸能界にもまた日常世界が浸透した。芸能界もまた日常世界の一部になり、芸能人も普通の平凡な人、常識を弁え、人を気遣うデリケートな心をもって、自己を主張しすぎず、他人に流されない、バランスのとれた人。そうあるべし、ということになってしまうのだよ・・・と。これが小生の少年期から初老の今までに起こった変化だ。

かつて俳優や女優が平々凡々たる庶民と同じように見られていたことはなかった。私生活を知る人は極々少数だった。文豪や天才詩人は凡人には理解し難い存在であり、ただその作品に感動するという存在だった。なので、凡人を縛る倫理道徳で彼らを縛ろうなどとは発想もしなかった。天才科学者がいる場所も毎日のライフスタイルもほとんど誰も知らなかった。

いくら一人当たりの実質GDPが世界の中位程度でしかなくとも、日本の社会は一色ではなく、現実と夢、あちらとこちら、平凡と非凡、表と裏、光と影、昼と夜・・・住む世界は幾つもに分かれていた感覚を記憶している。その後、日本社会は一億総中流社会になった。その残像が消えぬ間に、格差が拡大した。拡大しても元には戻らなかった。

***

まったくネエ・・・

本来は非常識を旨として生き様を見せるべき人間集団が、芸能事務所と契約し、芸能界に入り、「芸能人」となることで、その実は「普通の人達」と同じ平面に立ち始めて以来、「世間でも通用する人物であれ」などと言われるようになった。

芸能人も公人ですからとは・・・。品行方正な人間たちが増えすぎたのが近年の日本ドラマが人畜無害で、全然面白くなくなった原因か・・・

公人とは「公務員」から「務」の字をとった言葉だ。要するに、業務には従事していないが、公務員のような存在。そんなニュアンスをつけた言葉だと察しがつく。

この「公人」という言葉もなかったネエ、昔は。あるにはあったかもしれないが、少なくとも小生は記憶がない。

0 件のコメント: