同じことをずっと言いづけている友人の真意がある時点にさしかかって突然にわかる経験は誰にもあると思うのだが、それに似ているかもしれない。
『智恵子抄』は現代の相聞と称されているが、その中の例えば冒頭の作品から最初の2行を引用すると
いやなんですこの感性は21世紀の現在でも通じるのじゃあないか。
あなたのいってしまうのが―
かと思うと、
僕はあなたを思うたびにこれも平仮名字体の旧さを除外すれば、来年の朝ドラ台本に登場してもよいレベルの現代的な日本語表現だと思う。
一ばんぢかに永遠を感じる
僕があり、あなたがある
自分はこれに尽きてゐる
前者は明治45年7月。後者は大正2年12月の作品である。西暦にすればそれぞれ1912年、1913年だから100年以上も昔になる。
ところが、これに対していま北岡伸一『政党から軍部へ』(中公文庫『日本の歴史』第5巻)を再読しているのだが、ちょうど昭和恐慌で民政党内閣が退陣し、犬養毅内閣が発足した際に陸軍省の永田鉄山が政友会の政治家・小川平吉に出した書簡が引用されている:
満蒙問題、部内革新運動の横たわりある今日、同氏(=宇垣一成系の阿部信行)は絶対に適任ではありませぬ。此点御含置を願います。荒木中将、林中将辺りならば衆望の点は大丈夫に候。此辺の消息は森恪氏も承知しある筈です。出所:同書、184頁
そう言えば亡くなった祖父からは戦前期の公文書は毛筆で書き、それも候文だったと聞いたことがある。 上に引用したのは1931年のことだから、高村光太郎の詩句から約20年も後である。
大正3年(1914年)に夏目漱石は学習院大学で講演「私の個人主義」を依頼された返信として次のように書いている:
・・・承知いたしました。私はどちらでも構ひませんが早い方が便利で御座いますから11月25日に出る事に致します。然し時間について一寸申上げますが3時からだと4時か4時過ぎになる事と存じます。・・・(出所)夏目漱石全集第15巻(昭和42年版)、409頁
多少古風さが残っているが極めて現代的で率直である。
1930年代の軍部で当たり前のように使われていた日本語表現がいかに古く、この間の(当時からみれば)「現代化」といかに無縁であったかがわかる。その人の言葉はその人のスピリットを伝えるものだ。夏目漱石や高村光太郎よりは一世代若い世代ではあるものの、昭和の軍人は狭い専門家の社会で夜郎自大となり教養面の相対的劣化が顕著に進んでいたのだろう。
これはもうエリート意識と言うより、一般社会から隔絶された中で無自覚の化石化現象、退行性の高まりが内部で進行していた現れだと言うべきだ。
はやい話しが、戦前期の権力機構の内部は最後はバカばかりになってしまっていた、というのが厳しい現実であったに違いないと、そう推察できるのだが、そのことがリアルタイムでは「まさか」という感覚で誰にも分からなかった。様々な参考書を読む限り、そう想像するのが、仮説から確信へと変わってくる。
今日にも関連する問題意識は、それは何故か、という問いだ。
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