2018年12月8日土曜日

余計な一言: スポーツマンの「2トラック生活」は無理かも

韓国・文在寅大統領の対日外交はツー・トラック戦略を基本とする(と報道されている)。即ち、歴史は歴史、未来は未来。従軍慰安婦や徴用工ではアグレッシブに対日批判を繰り返すが、未来に向けては協力したいので、仲良く協議を進めていきましょうという基本姿勢をさす(ようだ)。

ところが、いざ実行してみると相手側(=日本側)からは虫のよいイイトコ取りに見えて、どうやら継続不可能な状態に陥りつつある。

やはり単一の国家の外交理念は一つであるほうが理解が容易であるし、相反した理念を使い分けることなど、最初から出来るはずはないわけである。時に矛盾した言動をとれば、どちらを信用していいかわからないというのは当たり前である。

エンプティな言葉は、どう細かな修飾をほどこしても空虚である事実は隠せないものだ。

綺麗な言葉が独り歩きしても現実の問題解決にはならない。この点は、国家でなく、一人一人の人間であっても同じことである。

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昨年の暮れから今年の春先にかけて世間の井戸端会議はとにかく「貴乃花親方マター」をしゃべってさえいれば放送局の視聴率はかせげたものである。

先日、一年前の日馬富士事件の「被害者」である貴ノ岩関が今度は暴行の「加害者」となって、ついに引退を決めてしまった。

日本古来の格闘技である相撲を健全な「スポーツ」として今後も育成していこうというのが社会の合意であるようだ。そのスポーツの日常風景から一切の暴力を排除していこうというのは、社会全般から暴力組織を排除していこうという努力にも似て、既に社会的合意が得られているようにも見える。

ただ、どうなのだろうねえ・・・これまでに何度も本ブログで投稿したのだが、暴力とは無縁の近代スポーツとして相撲が今後将来にかけて継承可能なのかといえば、小生は非常に困難ではないかと思っている。

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相撲という格闘技は、近代以前、少なくとも江戸時代以前にまで遡った日本社会の慣習や趣味志向を反映しながら、段々と技や動作、舞台が整えられ、現在の姿になった。

大体、日本相撲の発祥を伝える伝説においては当麻蹴早と野見宿禰という二人の神が対戦し、蹴早は宿禰の腰の骨を折って相手を殺してしまっている。こんな伝説をスポーツ誕生の逸話に持っている競技が他にあるだろうか?

肘打ちはタブーだが、張り手やカチ上ゲは可、蹴ってはダメだが、流れの中で蹴りながら足技をかけるのは仕方がない。頭突きも禁止どころか、立ち合いにはガチンコで突進するのが良しとされている。

一般社会においては殴ってはいけない。しかし、相撲では平手で打つのもアリである。ブチカマシなどは社会でやれば暴行だが、相撲ではそうするのが善いのである。

つまり、相撲という競技は、命の危険を減じる方向で様々なルールを取り入れながら、それでも「土俵の充実」という大義名分の下で、ギリギリのバランスをとりながら完成させてきた格闘技である。格闘技という一面をみればスポーツだが、継承されてきた興行という一面をみれば闘牛や闘鶏、鷹狩と同じく伝統文化であるとも言える。柔術は「柔道」となって国際的にも受け入れられやすい近代スポーツに衣替えをした。一方、相撲はまだ丁髷を結い、青龍・朱雀・白虎・玄武の四神を象徴する房の下で闘技を繰り広げている。

相撲は非近代的である。暴力的体質はそこに由来する。しかしながら、何よりも要点になるのは相撲が伝えているこうした荒々しい格闘が日本では「荒ブル神技」としてファンには支持され、多くの人が足を運んで高い入場料を払って観ていることである。相撲を観る人が何よりも嫌うのは、荒事を避けて身をかばう八百長相撲なのである。

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本割、巡業、稽古が終わって、日常生活を送るときは暴力は絶対不可。しかし、相撲の稽古・修行に励んでいるときは相撲道に従う。いわば「土俵内モード」と「土俵外モード」を峻別して使い分ける「ツー・トラック力士生活」を現代社会は求め始めている。

昔はこんな野暮なことは言われなかった。マア、言わんとしている理念はわかる。

しかし、稽古をしているとき、ニヤニヤ、ダラダラしながら見ている若い衆に先輩が張り手を食らわせるのは、これは相撲道の一環であって、土俵外にいる以上は「日常生活」を送っているのだとは言えないだろう。

力士として相撲部屋で共同生活を行い、毎日を送るその生活全体が「常住坐臥これ修行なり」。そういう哲学すらありうるかもしれない。力士に日本人が求める「品格」とは、土俵内モードにおいてはシッカリしてよね、土俵外では自由にしていいからサ、と。そんな事ではないはずだ。

もちろん、真に実力のある力士は年下の付け人を折檻するにしても、殴りはしないはずであるし、優しいはずである。『戦う時には勇猛なるも、土俵を下りれば仁優の人』というのは、日本人が古来理想とする英雄像だが、実際に仁と勇を兼備した人は稀であろう。

『一般社会でも通用する人間であれ』と力士を指導するのは一見分かりやすい。しかし、具体的に、力士はどうあれ、と言うのだろう。相撲部屋の中であっても平手打ちはいけないのだろうか?稽古を見ているときに叱るときも一切の暴力はいけないのか?しかし、勝負となると張り手が飛んできますよネ・・・。矛盾していないか。

こんな「相撲のツートラック化」を押し付けるより、もう割り切って現代社会の日常感覚にそろえて、相撲のあらゆる場面から暴力を完全追放する。この路線の方がシンプルになるはずだ。とすれば、張り手は禁止、頭突きになりうる低い立ち合いは禁止。韓国相撲のように、制限時間がくればやおら立ち上がり、一歩土俵中央に進んで、組み合って回しを引き合い。行司・11代式守勘太夫が「はっけよい!」と叫んでから格闘に入る。ツッパリが顔面に入れば、反則負け。のど輪も危険であるので禁止・・・こんな柔弱なパターンになるなら、サムライよろしく丁髷を結うのもおかしい、この伝統も廃止・・・。となれば、行事の烏帽子も可笑しいよね、廃止。・・・

力士生活のツートラック化は力士を戸惑わせるだけである。あくまでも社会常識と相撲とのすり合わせを是とするなら、ルール自体を改変するしかないのではないだろうか?

小生は現在の相撲界は現状でよいと思っている。相撲界内部の統制は相撲界で継承されてきた道徳尺度で治める方がよいと考える。それは慣習であり、故に今さら成文法に書き起こす必要はない。小生の本音は多様性に積極的に価値を置くローカリズムなのだから、どうしてもこう考える。が、どうしてもその現状が反社会的であると思うなら、徹底的にやればよい。そう提案する方が一貫している。



小生はそう感じてしまうナア・・・今日はこんな一言で。

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