2019年9月21日土曜日

東電裁判無罪について

東電の旧経営者3人に行われた強制起訴裁判においてやはり無罪が言い渡されて世間では「納得できない」、「現行法においては仕方がない」、「企業犯罪について法整備をするべし」等々、色々な意見が沸騰している。

まあ、無罪になったとしても旧経営者の名誉ある人生は失われたまま戻っては来ない、それだけは確かなことだろう。

人生というのは、思い通りにはいかないものだ……、先日、小生の三鷹に棲む叔父が話していたが、全く同感だ。しかし「思い通りにはいかない」と嘆く資格があるのは、人に出来ることは全てやり尽くしたと言える人間だけである。「運がなかった」と軽々にいうべきではないというのが亡くなった父と同じく小生の見方である。

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有罪・無罪の焦点になったのは『15メートル超の津波が襲来する可能性が指摘されていたにもかかわらず安全対策に注力しなかった』、この点に関して経営責任を認めるか否かであった。判決の要点は<津波の予測可能性>にあった。

判決文では政府が公表している長期地震予測に基づいて計算した津波予測は信頼に値しないという立場が示されている。これに対して「政府が公表していた長期地震予測そのものが信頼できない」ということであれば、その認識は極めて不適切であると、そんな意見を述べる識者もいる。この点では小生もまったく同感だ。

司法府の裁判官が行政府の公式見解を「信頼に値しない」と断言したとすれば「極めて不適切」で「不見識」だと思う。

が、裁判所が指摘したのは「長期地震予測に基づいて予測した津波の高さ」が信頼に値しないという趣旨であったと思われる。

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思うのだが、長期地震予測そのものが信頼できるのなら、それに基づいて一定の方法で計算された津波予測もまた予測計算の巧拙はあるにしても、「この計算方法の下ではこうなる」という程度の信頼性はあると認めるのが科学である。

「予測計算の巧拙」というのが問題の本質である。

判決では<予測可能性>という点が司法の立場から吟味されているのだが、15メートル超の津波が「中位予測」、つまり<ありうべき未来>として予測されているのなら最初から安全対策を講じる義務が経営トップにあったのは当然の理屈である。

小生は不勉強というか、そこまで強い関心はもっていないと言うべきなのだが、津波予測は統計科学的に常道を踏んで行われたもので、たとえば<95パーセント予測区間>という方式で導出されたものであったのだろうか?95パーセントの確率で予測される事象の中に15メートル超の津波が含まれていたということなのだろうか?ここを確認したいところだ。

<ありうべき未来>として予測されたのではなく、<可能性ある事象の範囲>として15メートル超の津波も指摘されていたということであれば、現在の対策では対応できないほどの津波が襲来する確率はどの程度であると計算されていたのか。予測計算では予測する事象が発生する確率を数値として示さなければならないわけである。その計算方法には、一定の予測モデルが採用され、モデル推定では多数の選択肢があり、精度のうえで優劣が分かれてくるのが要点である。

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その確率が予測計算のワークシートでは計算されていたとする。

とすれば、次に問題になるのは大津波が襲来する確率が何パーセント以上であれば、無視できない可能性として受けとめるべきであったのかという点になる。

確率を扱うには熟練を要する。判決文にも同趣旨のことが書かれているが、確率が1000万分の1であるリスクにも対応しなければならないとすれば、理屈の上では隕石が落下するリスクにも企業は対応しなければならないというロジックになり、膨大な安全投資コストをカバーできるだけの電力価格は現行の数倍に達するであろう。製造業は全滅する理屈である。失業者は溢れることになる。それが社会が歩むべき道なのかという疑問が呈されるのは確実である。

このロジックは統計的品質管理と類似している。どの程度の確率であれば、無視できない危険としてアクションをとる必要があるのかという問題だ。そうなると、理論的な正解はないわけであり、現状を維持するリスクとシステムを停止する際の損失との比較、仮説検定の用語で言えば「第1種の過誤」と「第2種の過誤」とタイプの異なった二つの判断ミスによる損失の比較になる。故に、無視できるリスクは安全管理の上の経験に基づく慣行によることになる。無視できない確率として大学の統計学の授業でよく用いられるのは<確率5パーセント>であるが、品質管理の現場では<確率1パーセント>でも検出漏れの危険があるなら安全管理の上から問題ありと判断して再検証するか、生産ラインを止めて一斉点検を行なっているものと憶測する。では確率1万分の1であれば「無視できる確率」と判断してよいのだろうか。これも「ありうる確率」とするのであれば、では確率1千万分の1では、確率1兆分の1なら……、キリがないわけであり、およそ災害の危険がある事業はすべて十分な安全投資整備が完了するまでは実行不能になってしまう。

電力であれば、原発はダメ、火力発電は地球温暖化を招くかもしれないから今のままではダメ、太陽光は森林伐採、土砂災害の要因になるかもしれないから今のままではダメ、風力発電は音響災害の可能性があるから今のままではダメ、水力発電は放水時の災害を招くかもしれないから今のままではダメ、と。こんな過激な意見が説得力を持ってしまうであろう。こうなると困るのは実際に暮らしている日本人自身になるのではないか。何かがおかしい。何かの屁理屈がここには混ざっているのだ。

たとえば20年以内に大津波の危険があるとしてもそれは確実ではない。不確実な危険を防止するための安全コストをいま負担しても20年以内に大津波は生じないかもしれない。これは損失である。他にできたことは多い。安全投資は20年後でもよかったわけだ。これは損だと思い「20年間は心配ない」と判断してもよい。安全コストは避けられる。ところが実際に20年が経過する前に大津波が襲来するかもしれない。これも損失である。一方の損失だけを認識するのは一面的なのである。両方のバランスが何よりも重要だ。

一体、東日本大震災よりも以前に15メートル超の大津波が襲来する指摘が社内にあったというが、どの程度の確率でそんな事象の発生が予測されていたのか?ここが明らかにならなければ、具体的な議論には進めない。これが予測レポートを評価するうえでの基本である。

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多分、小生の勝手な推測だが、東電社内の予測レポートはそれほど緻密な計算方法から得られた結果ではなかったのではないだろうか。長期地震予測が公表されていたにしても、震源地点、地震規模、海岸部の地形等々、様々な要因から個別の地点を襲う津波の高さは変動する。予測を計算するに利用したデータ量とデータの品質も鍵であったろう。もしも予測レポートに専門的立場からみた色々な問題点があったのなら、計算結果として尊重されなかったという実際の成り行きはそれほど経営トップの不誠実とは言えない。そんな結論もありうる。データでメシをくってきた立場からはそう感じられるのだ。

ただ一つ、「小生なら」と上から目線で言うつもりは全くない、単に偏屈でへそ曲がりであるからだけなのだが、小生なら「15メートル超の津波を予測した奴がいる」と耳にすれば、「最先端の知識のある専門家にきちんと再計算してもらえ」と指示するだろう。その作業が間に合ったか、間に合わなかったかは分からないが、もしもこの種の検証作業がされていなかったとすれば、旧経営陣にはモラル的な責任がある。何よりも経営にあたったトップ達がそれは体感しているはずであり、人生の最後まで心の中の痛みとなって自分自身を苛むに違いない。

人事を尽くして天命をまつ

亡くなった父が好きだったこの格言の要旨は「人事をつくす」、つまり「出来ることはすべてせよ」というところにあるのだ。

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