小生は最近時間も出来てきたので相撲への関心が再び高まり、最近では「貴乃花騒動」の出入りなど何度か本ブログに投稿してきている。
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相撲協会はそもそも「暴力」をどう考えているのか?
確かに公式見解を聞いたことはない。
思うに相撲という競技自体が半ば以上「暴行」である。というか、「喧嘩」そのものである。立ち合いで頭からぶちかますのも、張り手で相手を眩ませるのも相撲の内だ。力士の押し、突きを普通の人がまともに受ければ骨折するだろう。あれを「暴力」と言わずして何という?もし相撲自体が「暴力」と無縁なのであれば、なぜ力士はあれほど頻繁に鼻血を出したり、筋肉断裂などの大怪我をするのか教えてほしいものだ。
しかし、相撲協会は相撲の取り組みを暴力とは言わない。当たり前である。取り組みが実質的には暴行である以上、稽古もまた暴行の予行演習となるのは必然であろう。しかし、これらも決して暴行ではない。一言でいえば、相撲の場は非日常的空間である。これが相撲を考えるときの基本的な理屈だ。
では力士の日常生活はどうか。「行住坐臥これ修行なり」。以前にもこの心構えは書いたことがある。
本当はこれが正論なのだと小生は思っている。相撲に関しては……。
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そんな相撲を生業として生きている力士が付人の怠慢を拳骨で叱るなどは何という事もない……。これが相撲界の日常感覚ではあるまいか?上に述べたように理屈にもかなっている。
ただ理屈と常識で割り切れるなら、人間関係でトラブルなどは起こりえない。人は強者に対して「仁愛」を求める。弱者への「惻隠の情」を求める。
貴ノ富士が所属する千賀ノ浦部屋は、先代親方が同居しているうえに、弟子たちも生え抜き組と旧貴乃花部屋勢が溶け込まず、稽古の環境としては最悪に近いと耳にしている。何という事もない叱責も相手側のとりようでは暴力となる。「被害者」の主観的な感情から「暴力」を告発されれば、それ以降は相撲の世界を離れて世間並みの尺度から「暴力」を論じる。そんなダブル・スタンダードでは相撲という格闘技が風化していくばかりだ。問題の本質は「暴力」ではないはずである。こんな状況ではケレン味のない勝負が魅力であった相撲が最後には俗化の限りを尽くすようになり、八百長という言葉すら意味を失い、ついにはシナリオに沿った演武に収束していくことになるだろう。『何事もシナリオって奴があれば安心でござんしょう……水戸黄門もそうであったと思いやす』という思想には現代日本の多数の人が賛成(?)するはずだ。この段階で相撲を所管するのはスポーツ庁ではなく、文化庁がよりふさわしくなるだろう。
ありていに言えば、現代日本の大相撲は仇討ちによる果し合いや武士による切り捨て御免が許された江戸の文化を色濃く残している伝統闘技である。そこに21世紀の日常感覚をそのまま持ち込めば、守りたい残したいと願う人々の心情を根本から否定する結果に至るのは自然の成り行きである。例えるのは悪いが闘牛や闘犬を観たいと願う人と動物虐待を嫌悪する人は全く感性が異なる。二種の人たちは水と油なのである。マア、『お前さん、それを言っちゃあおしめえだヨ』と言われるのは分かっているが。
「暴力」を本心から追放したいと願う人々は、心の本音の部分で「土俵の充実」などは求めていないのではないかと小生は邪推している。ロジカルに考えるとそんな推測が成り立つ。
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