小学校から中学校へ進むとき、父の転勤に伴って伊豆の三島市から川崎市に引っ越した。日吉の隣の元住吉にあった社宅で4階建てのアパートであった。小生を入れた5人家族はそこの3階にある302号室に入居した。4DKの部屋の配置は住宅公団方式というかスタンダードなものだった。地方の小都市から首都圏に移ると人の数や建物の高さばかりではない、物言いまでも速すぎてついていけないと感じるものだ。思春期で人に打ち解けにくい年齢にさしかかり、まして人見知りをする小生は中々友人ができず、一人孤立した淋しい学校生活を送ったものである。
引っ越した年の夏、学校では臨海学校の予定があった。細かなことは忘れたが木更津に2泊か3泊かするのであったろう。木更津には川崎港からフェリーボートに乗って行くのであったが、それを母が聞くとひどく心配した。多分「フェリーボート」という言葉の語感が激しく母の気持ちを刺激したのだと今では憶測しているが、本当に安全なのだろうか、何かあったら沈むのではないだろうかと心配し、担任の教師にも詰め寄り、結局、小生はその臨海学校には参加しなかった。母に馴染みのある瀬戸内海周辺では「連絡船」という言葉が普通であり、「▲▲ボート」というのは余程小さな舟艇だと思い込んだのだ。学校の職員室では多分笑い話になっていたのだろうと推測する。
今日、その話を思い出してカミさんにすると『△△のうち、そういうところあるヨネエ、心配し過ぎるでしょ』と応じる。確かにそうだが、それで連想ゲームのように思い出したのだが、夏休みが終わって新学期が始まり間もなくの頃だったと思うが、学校から帰宅して家にいると同じ社宅の奥さんが訪ねてきて『お母さんは入院したのヨ』と伝えた。その時の奥さんの顔の表情や声は明確に記憶していて今でも蘇るようだ。ただ、小生はどう応じていいのかわからず特にどうという反応も示さずボーッとしていた。後できくと『△△クンは本当に冷静に聞いていたのヨ』などと噂をしていたというから印象と言うのは分からないものである。
母が入院したのは神経性胃炎であり、通院していた診療所で倒れたため救急車で搬送されたということだった。『救急車ってこんなものかと思ったわよ』と話していたから呑気なものである。母は1か月程度は入院していただろうか。退院してからは父方、母方の祖母が交代で家に来てくれて食事や洗濯の面倒をみてくれた。
こんな風な経緯はずっと明確に覚えていたのだが、神経性胃炎はストレスや不安が原因である。伊豆の小都市から川崎に転居して慣れないところに3人の子供たちの転校もあり一人で家内を切り盛りするのは母には大変だったのだろうと今になって実感するのは余りにも遅きに過ぎると言わざるを得ない。結局、入院するまでになったのだが、小生の臨海学校を「心配だから」という理由で欠席させた一幕も母の健康が崩れていた中での出来事だったと解すれば、いかにも自然であるように改めて感じられた。カミさんにはそんな話をしたのだ。
ただ不思議だったのは、母がかかりつけの病院で倒れて自宅にはいないはずであるのに何故小生は家に入れたのか、カギはかかっていなかったのか、それより小生よりも早く帰ってきていたはずの妹や弟はそのときどこに居たのか?すべて記憶に残っていないのだ。「冷静」などではなく「動転」した心理状態にあったためだろうと今さらながら分かる。多分、その夕刻に帰宅した父が病院まで連れて行ってくれたのではないだろうか。病院は元住吉駅の近くにある「秋庭診療所」といったが、数年前に再び近くを歩いてみた時には見つからなかった。既に閉鎖されたのかもしれない。しかしその当時小生は遊ぶ友人もほとんどいなかったので下校時に毎日病院に寄っては母と話をしたものである。
すっかり忘れていると思っていた事でも何かをきっかけにして前後の事をアリアリと思い出すことがある。上に述べたことは、これとは反対でハッキリ覚えていると思い込んでいたことでも前後の事がどうであったかを思い出そうとすると全く思い出せない、忘れてしまっている。こちらの方である。
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