現在のコロナ不況は、需要ショック、供給ショックの双方を評価する必要があるが、タイプとしては<市場機能不全症>であって、故に市場調整メカニズムをフルに活用することが問題解決への最大のキーポイントであると小生は観ている・・・という点は何度も投稿した。
たとえば、先日メモった株価見通しではこんなことを書いている。
今年のコロナ不況では、需要全体が消失したというより、必要な商品が売られていない一方で、売られている商品は買い手がつかない、需給調整不全症型のスランプが進んでいる。増産に手間取り所得が増えない業種がある一方で、販売不振で減産しているため所得が減る業種がある。なのでGDPがマイナスとなる。前にも書いたがこんな要約になる。故に、市場調整機能が作動するように政府が参入・資格・開業規制を緩和し、生産要素が円滑かつスピーディに移動するインセンティブを刺激できるなら、それが問題解決としては最も有効で副作用のない王道である。
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カミさんがいいものを見つけたというので、みてみると「Coolmask」という商品だった。マスクと熱中症予防とのバランスがいまテレビで話題になっているので、さすがに先を読むのが得意な日本企業だと感心した。
早速、ネット通販で購入したのだが、よくみると「韓国製」であった。
これでは、超過需要が発生して大きなビジネスチャンスが到来しているにもかかわらず、日本では雇用もビジネスも生まれない。韓国にカネが流れていくだけである。
これでは日本が食い物にされるだけではないか・・・と感じた次第
何もそれがいけないと言いたいわけではない。ただ、日本企業の環境即応力が弱く、韓国企業のビジネス感覚が一枚上手だと、いまのそんな力関係を改めて感じているだけだ。
レナウンが倒産する一方で、夏向けのマスク一つをとっても外国勢に需要を奪われてしまう。いつの時代も優勝劣敗が経済の現実であった。優れた側が生存競争で残る。電波を介した井戸端会議で「こんな風であって、いいんでしょうか?」、「こんな世の中は正しいんでしょうか?」などと、不平や愚痴を言っている間に、勝負には負けている。『こりゃあ、ダメだあ』と感じるのは小生だけではあるまい。
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ホテル、航空会社、高級アパレルが不振に喘ぐ一方で、衛生用品を増産したライオン、ユニ・チャームは空前の利益、スーパーが好調な一方で、デパートは極端な不振だ。一年前には予想もしなかった激しい生存競争が唐突に、予告もなく始まり、進行中である。新型コロナウイルスとの戦いも衛生上の戦争であるが、誰が破滅するか分からないという意味では、経済戦争もいまの現実である。
ナイトクラブやカラオケバーが1年前と同じ空間設計で営業を再開するとしても、利益の天井はずっと低くなっているだろう。先行きの目途はたたないだろう。資金繰りを手当てしたくとも、店舗拡張をしたくとも、金融機関はリスクが高いと感じ融資を簡単には引き受けないだろう。それより、コロナ後の環境に即応した新たな店舗デザインと運営スタイルを提案する店は、金融機関側の関心を刺激し、融資を真剣に検討するだろう。
この20年間、少子化という環境激変の中で大学サバイバル競争が進み、今では勝ち組と定員割れの負け組とに2極分化した。それでも国際化の流れの中で、世界の中では日本国内の大学全体が負け組になる心配がある。まだまだ環境への適応が足らないのだ。
環境の激変は、経営者の経営能力をテストする<ストレステスト>であって、能力の乏しい経営者はその市場から退出することを迫られる。資金が退出を促すように流れ始めるので、抵抗することは難しいのだ。また、政府も経済合理的な流れの変化をせき止めるようなことをしてはいけない。
100年前のスペイン風邪大流行では4000万人(某TV局は1億人と桁数をあげていたが)の犠牲者が出たが、それでもなお近現代史における1920年代という時代は第一次大戦を終えた「戦後」であり、感染症の惨事ではなく慢性的な経済不安によって特徴づけられている10年間だった。ちょうど、日本の幕末という時代は、コレラの大流行で20万人から30万人の犠牲者が出たということより、開国をし徳川幕府が瓦解した時代として記憶されていることと相似の関係にある。こんなことも何かを示唆しているのだろうか。
ウイルス禍そのものも確かに大事件だが、それによって引き起こされる世の中の変化がもっと本質的に人々の暮らしを変える。人々は社会の大きな変化を記憶し、終息した疫病は忘却するのだろう。その大きな変化は事後的にはウイルスとは直接の関係はないことが多いものだ。もともと望ましい変化で人々もそう思っていたのだが、旧い慣習に抑えられて主流とはなれずにいた方向であることが多い。環境変化は、もともと脆弱化していた旧いシステムに対する最後の一撃となる。その意味では、ウイルスは新しい時代の産婆役(?)を担う ― まさに悪役が転じて正義の味方になるという話だ。極端にいえば、小生にはそんな風にも思われるのだ、な。
ナイトクラブやカラオケバーが1年前と同じ空間設計で営業を再開するとしても、利益の天井はずっと低くなっているだろう。先行きの目途はたたないだろう。資金繰りを手当てしたくとも、店舗拡張をしたくとも、金融機関はリスクが高いと感じ融資を簡単には引き受けないだろう。それより、コロナ後の環境に即応した新たな店舗デザインと運営スタイルを提案する店は、金融機関側の関心を刺激し、融資を真剣に検討するだろう。
この20年間、少子化という環境激変の中で大学サバイバル競争が進み、今では勝ち組と定員割れの負け組とに2極分化した。それでも国際化の流れの中で、世界の中では日本国内の大学全体が負け組になる心配がある。まだまだ環境への適応が足らないのだ。
環境の激変は、経営者の経営能力をテストする<ストレステスト>であって、能力の乏しい経営者はその市場から退出することを迫られる。資金が退出を促すように流れ始めるので、抵抗することは難しいのだ。また、政府も経済合理的な流れの変化をせき止めるようなことをしてはいけない。
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100年前のスペイン風邪大流行では4000万人(某TV局は1億人と桁数をあげていたが)の犠牲者が出たが、それでもなお近現代史における1920年代という時代は第一次大戦を終えた「戦後」であり、感染症の惨事ではなく慢性的な経済不安によって特徴づけられている10年間だった。ちょうど、日本の幕末という時代は、コレラの大流行で20万人から30万人の犠牲者が出たということより、開国をし徳川幕府が瓦解した時代として記憶されていることと相似の関係にある。こんなことも何かを示唆しているのだろうか。
ウイルス禍そのものも確かに大事件だが、それによって引き起こされる世の中の変化がもっと本質的に人々の暮らしを変える。人々は社会の大きな変化を記憶し、終息した疫病は忘却するのだろう。その大きな変化は事後的にはウイルスとは直接の関係はないことが多いものだ。もともと望ましい変化で人々もそう思っていたのだが、旧い慣習に抑えられて主流とはなれずにいた方向であることが多い。環境変化は、もともと脆弱化していた旧いシステムに対する最後の一撃となる。その意味では、ウイルスは新しい時代の産婆役(?)を担う ― まさに悪役が転じて正義の味方になるという話だ。極端にいえば、小生にはそんな風にも思われるのだ、な。
経済問題はモラルの問題ではないし、政治で解決しようとすると副作用が大きい。そんなこと位は歴史を通しても分かっているはずだ。
経済問題の解決に「民度」などは無関係だ。社会科学を活用するかどうかだけである。
大体、公衆の電波に乗せてモラルを振りかざすのは、社会をギスギスさせるだけで、合計として社会は良くなっているのか、悪くなっているのか、よく分からないと小生は思っている。
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