2020年5月5日火曜日

断想: 医療専門家が「新しい生活様式」を提案することについて

新コロナ型ウイルスの感染防止のため緊急事態宣言が5月末まで延長されることになったが、同時に専門家会議から「新しい生活様式」の提案もあった。

この「新しい国民生活提案」に対して、経済学者、政治学者、法律専門家等々、主に社会科学系の専門家から批判が噴出(?)、というか評判がとにかく悪いようだ。テレビのワイドショーMCにも受けが悪い。一言でいえば『余計なお世話!』ということだ。

気持ちは分かるが、医者が患者の生活習慣のあり方まで立ち入って細かな助言や指示をすることは日常茶飯事である。「社会の医師」をもって自ら任じている公衆衛生専門家が「新しい生活のあり方」を指示するとしても、何も出過ぎたことを提案しているという意識はないだろう。

詰まるところ、ウイルス蔓延で市場メカニズムの変調が目立つ中、実効性のある経済政策を何ら提案、立案できずにいる経済専門家、その他の社会科学者は、ただただ悔しいのだろう、と。妬みとまでは言いたくないが、小生にはどうもそう思われるのだ、な。

そもそもエコノミストの出番であるべきなのだが、「問題解決能力」がないのか、「本気」になっていないのか、解決案をさっぱり出せないところに、医学部保健学畑で学んだ公衆衛生専門家が「社会医学」の観点から「国民生活のあり方」をドンドン提案し始めているわけだ。少壮世代に属する経済学部出身のエコノミストには必ず焦りがある。

『伝染病の蔓延は、自然災害もそうですが、経済学でいう外生変数でありまして、その発生メカニズムについては経済学は関知しないのでございます。ただ外生的要因の変化がいかなる経済的影響をもたらすか。それは正に経済問題でありまして、定量的評価を行うことは可能でございます』。マア、そんな言い方になるだろうが、その定量的評価も公的レベル、学会レベル、専門家個人レベルいずれにおいても、信頼できる数字は何も公表されていない ― 少なくとも小生は寡聞にして知らない。

メディアが迫るでもなく、誰がどんなことに取り組んでいるのかも含め、何も分からない。せいぜいが実質GDP成長率に対する下押し圧力の概算くらいで、これならIMFなどの国際機関、日本国内のシンクタンクが公表しているようである。が、現在のように不足している物資と売れない商品が混在している需給状況ではGDP全体への影響を試算してみても計算自体が怪しいものだ。適切な経済政策の立案に役に立つかどうか疑問である。「不況」と言っても需要ショックだけではなく、供給ショックも同時に起きているのだ。

現在の状況が、社会の危機であると同時に、経済学など一部社会科学系分野の専門家にとっても危機であることは、間違いない。隣の畑で仕事をしている人の提案を非難するのではなく、自分の畑で仕事をして自分の提案をするしか信頼を得る途はない、というのが基本的な理屈で実に単純な話である。

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ずっと昔、明治時代にはコレラの大流行が2回発生した。西南戦争が起きた明治10年(1877年)から12年(1879年)にかけての時期、及び明治19年(1886年)前後で、それぞれ10万人超の死者が出ている。致死率は60%を超えていた。この間、1884年にはコレラ菌が病原であることをドイツ人、ローベルト・コッホが発見している。

現在の新型コロナ・ウイルス禍に比べればゼロの数が幾つ違うか数えなければならない程だが、それでも日本近現代史の中でコレラ大流行のことは幕末ならトピックに入るが、明治以降も大問題であった事はあまり知られていない。

というのは、病原が判明したからという点もあるが、もっと大きな問題があったからで、それは日本人の国民病と言われた「脚気」への対処で論争が起こったからだ。

Wikipediaには以下の解説がある:
陸軍省編『明治三十七八年戦役陸軍衛生史』第二巻統計、陸軍一等軍医正・西村文雄編著『軍医の観たる日露戦争』によれば、国外での動員兵数999,868人のうち、戦死46.423人 (4.6%)、戦傷153,623人 (15.4%)、戦地入院251,185人 (25.1%)(ただし、資料によって病気の統計値が異なる[50])。戦地入院のうち、脚気が110,751人 (44.1%) を占めており、在隊の脚気患者140,931人(概数)を併せると、戦地で25万人強の脚気患者が発生した・・・
海軍では「食事改革」が実行されていたため脚気患者が戦争中ほとんど発生しなかったことは周知の事だが、その食事改革の端緒については以下の記述がある(出所は上と同じ):
ビタミンの先覚的な業績を上げたのが、大日本帝国海軍軍医の高木兼寛であった[14]臨床主体のイギリス医学に学んだ高木は、軍艦によって脚気の発生に差があること、また患者が下士官以下の兵員や囚人に多く、士官に少ないことに気づいた。
英米流の帰納的推論、つまり統計的発想がここにはある。そういえば、統計学を勉強した人であれば「職業としての看護」を確立したフロレンス・ナイチンゲールを誰でも知っているはずだ。野戦病院の死因別死者数を放射状多角形グラフにして「データの視える化」を始めたのはナイチンゲールである。

ローベルト・コッホに学んだドイツ帰りの鴎外・森林太郎が、脚気病原菌説を採り、生活習慣病であるとする海軍側と鋭く対立し、結果として日露戦争中の災禍を招いてしまった責任を、鴎外はずっと感じ続けたようである。

病気の蔓延が社会システムの機能に対する大きなリスクである以上、感染防止の観点から公衆衛生・医療専門家が「社会のあり方」、「生活のあり方」、「食生活のあり方」、「働き方のあり方」等々について、提案をし、改革を進めようとするのは、当たり前のことである。

あらゆる科学分野は社会問題の解決という土俵の中で競争関係にある。競争に敗れた学問分野は信頼性を失うだけのことである。

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こんな社会的雰囲気であるので、世間の中で「コロナ鬱」が高じるのは仕方がないことかもしれない。

昨日は、室内のマグネットサイクルで自転車こぎをしながら、ベートーベンの交響曲2番を聴いた。

本当に久しぶりで、本ブログにもメモしたように、昨年10月頃からYoutubeやAmazon Prime Musicでモーツアルトのあらゆる作品を聴きまくっていたのである。往年のLPは高価な買い物だったが、今は実質無料である。ほぼ全作品をネットを通して聴いて鑑賞できるのだから進歩した世の中になったものだ。

そんな風だったから、モーツアルト以外の作品を聴くことはほぼ全くなかったのだが、昨日はさすがにベートーベンを聴いてみようという気になった。第2番は偶数番号の交響曲ではお気に入りで、4番、8番よりずっと好きである。6番『田園』の方が傑作であるとは思うが、2番は大傑作である第3番『エロイカ』の序幕のような曲想も感じ取られ、何よりも若さがあるのだ。

このところ、モーツアルトでずっと聴いてきたのは同じピアノ協奏曲でも20番や27番ではなく、どちらかといえば無名な13番、14番、17番である。若いころには知らなかったヴァイオリン協奏曲の第3番、第4番も大のお気に入りになった。学生の頃には毎日のように聞いていたピアノソナタの代わりに「ヴァイオリンソナタ」(=ピアノとヴァイオリンのためのソナタ)を愛聴するようになり、中でも35番ト長調は小生にとってなくてはならない曲になった。どのモーツアルトにも言えるのだが、聴いていると単に音を素材にした純粋芸術作品というより、血の通っている生命を感じる。自在に瞬転する転調と曲調の揺らめく様は、何かアクロバット飛行に同乗しているようでもあり、空を飛翔する自由な命を耳で聴いている感覚にはまってしまうのだ。そこには人間がいるのだ、な。決して「神の作品」ではない。「人間の音楽」だ。そう思ってしまう。

そこがとても好きだ。

ベートーベンを聴きたくなったのは、亡くなった母が好きだったからである。

聴いていて感じるのはやはり血の通った存在感である。単なる音を素材とする工芸品ではない。ベートーベンその人の生命がそこにはある。ただ、どういえばいいのか、ベートーベンの交響曲から感じられるのは自由に飛翔する感覚ではなくて、前に前にと進む感覚というか、命が生まれて伸びゆく感覚というか、とにかく違うのだ、な。だとすれば、ベートーベンが生きた時代の社会精神があったとして、その社会精神に浸されながらベートーベンは仕事をしたと言えるのかもしれない。

どちらにしても、芸術家もまた「時代が育てた人間」である。

「コロナ鬱」で萎れて駄目になってしまう人間もいれば、強烈な動機を得て成長する人間もいるだろう。萎れる人を救済することも大事だろうが、動機付けられ成長する人間を支援することの方がもっと大事であるだろう。


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