2020年5月26日火曜日

断想: 表現と責任、匿名と無責任について

言葉の暴力については、本ブログでも多数回、話題にしてきた。また一つ、覚え書きを追加したい。


街中のヘイトスピーチに対しては2016年に「(通称)ヘイトスピーチ対策法」が成立して以来、市町村が条例で罰則を設けて規制する例も出てきている。しかし、外国出身者等へのヘイトスピーチは規制されるが、日本人に対するヘイトスピーチは放置されている。このアンバランスもずっと指摘されている。

女子プロレスで活躍する若手レスラーが、某民間テレビ局で放送している(一見)ドキュメンタリー番組の中で演じた乱暴な振舞いが、現実世界とゴッチャになって負のイメージを形成してしまい、耐えられぬほどのネット・バッシングの嵐に見舞われて、帰らぬ人になるという事件が起きた。

本質は「自由」をどう理解するかにある。

近代社会では職業選択は自由である。しかし、最初に選んだ職業に失敗しても、助けてくれる所は職業安定所くらいだ。職業によっては、これもない。自由とは保護される権利を意味しない。

「表現の自由」は憲法で保障されている。ところが、<自由>には<責任>が論理必然的に伴うことが、意外に学校では教えられていないのかもしれない。隷属と責任は両立しない。責任は自由から生じる。なので、「表現の自由」が戦後日本社会で保障されているが故に、だからこそ自分の表現がもたらす結果には責任がある。基本的な理屈はこうなる。こうなるはずであるし、べきでもある。もし学校で教えられていないとすれば、それは国語は漢字の勉強、歴史は年号や人名を覚える勉強という具合に、授業が暗記科目になってしまっているからだ。受験中心の弊害である。自由と責任の不可分性など道徳を正規授業化するまでもない。丁寧に読書をしていればすぐに心に浸み込む常識である。

自分の暴力的な言葉で人が傷つくとき、そのことに責任を感じるのは当たり前の感情である。実際、責任があると考えるのが健全な常識だろう。御免ネで済む場合もあるし、すまない場合もある。これまた当然である。とすれば、法律上もそうあるべきでしょう。

要は、言葉の暴力をどのように、どの程度にまで処罰するかである。

ま、この辺の話題については、ネットの中傷もあるが、メディアの暴力もこれに近いところがある。この辺りはこれまでにも何度か投稿している。単純に反復しても仕方がない。

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それより、匿名性と無責任との関係をメモしておきたい。

ワイドショーや報道番組を視るにつけ思うのだが、テレビ番組の編成方針、人物配置、内容などなど、実質的にチーフ・プロデューサーが(事前に)決定する範囲は広い。ドラマの番宣では主演や主要人物が登場することが多いが、本当は演技をする俳優や女優と共に番組の制作を担当しているチーフ・プロデューサーも一緒に登場するべきだろう(映画では監督が必ず舞台挨拶に登場する )— また嫌な「べきだ」を使ってしまった。

特に、虚構ではなく「リアリティ」についてニュースを報道する情報番組では、「作り手」が信じている特定の思想や価値観が混在して語られているというその事が実は語られていない。すべて人の作品は「誰かが作ったもの」である。作り手の思想が混在しない純粋に非主観的な作品は存在するはずがない。特に、それ自体として存在するモノではなくソフトな文化的作品である放送番組においては、作り手と作品は一体である。放送番組を作るプロデューサーは顔を見せて、中心テーマや着想などを視聴者に伝えておくと鑑賞者(=視聴者)には分かりやすい。

最近は、最初に引き合いに出した事件の舞台となった番組のように「リアリティ番組」というか、「情報番組」というか、「一見・ドキュメンタリー番組」が視聴者に受けているようだが、これらも作り手がそのように作っているという虚構性が視聴者には実は届いていないかもしれない。所詮は、テレビ番組も、新聞記事も、メディアの作品は、ある意味ではすべて「書き手・作り手が作ったもの」である。この否定できない事実を、時には公衆に強調しておくことは、メディアの良心というものではないだろうか。どんな人物であるかを知らない人の本は、小説であっても、学術的な本であっても、すんなりと頭に入りにくいものだ。読み誤ることも増えるものだ。真意が伝わりにくいのである。

放送番組も映画と同じくソフトな文化作品だ。作り手の顔が見えている方がよい。

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匿名は無責任のためのツールである。文化産業で匿名性の陰に隠れることは弱さの証明でもある。責任を引き受ける覚悟がなければ表現をするべきではないのではないだろうか。

文化産業には知識産業も含まれるし、情報産業もその一部である。

匿名性が許容されている場としては、規格大量生産が行われる農場や工場などがある。確かに安全性が承認されている商品は大量生産するのが効率的だ。しかし、そんな匿名性が支配する場というのは、チャップリンの『モダンタイムズ』を観るまでもなく、そこで活動している個々のパーツが企業組織に埋没し、一人一人の社員の無責任性が貫徹される場でもあって、そうであるが故にチャップリンはそれを冷笑し、非難するのであって、それこそ非人間的な社会システムそのものなのである。チャップリンが加える鋭い文明批判の標的そのものである。匿名参加は便利であるが、ここを見逃してはダメだろう。責任は従属の下では生じない。責任は自由な個人に発生する。基本的な命題はここでも再確認される。

名無しの権兵衛さん、あなはここで何をやっているの?

こんな詰問に回答できなければなるまい。もちろん様々な答えがありうる。が、匿名に隠れた「意見表明」を「世論」と呼ぶべきではないという指摘は、一理あると言えば確かに理屈は通っているようでもある ― 「世論」ではないと一刀両断に切り捨てるのも極端であるとは思うが、かと言って、どう考えておけばよいのか、迷うところがある。

TV、新聞、SNSなど現代のメディア産業が『モダンタイムズ』を地で行くような非人間的な文化産業になっていなければ幸いだ。

<世論>だと思い込んで参加してきたことが、実は作られた<群集>だったかもしれませんぜ。最悪のケース、お上による<群衆管理>の対象となるべきでもありましょう。踊るも、踊らされるも、踊っている身には分かりませぬ。リスクは避けるべきでありましょう。剣呑、剣呑・・・

今日は最初から最後まで<べき、べき>の話がやけに多くなってしまった・・・。

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