2020年6月25日木曜日

アフター・インターネットからアフター・コロナへ、ということか

「ポストコロナ」という言葉が想像以上に大きなインパクトになって国の形を変えてしまう可能性は確かにある。

1980年代の終わり、役所という勤務場所から大学に移った時期にあたるが、国境を越えた通信手段としてはFaxでなくEmailが常用されている状況を知って驚いたことがあった。しかし、当時のBITNETやJunetは使っているコンピューターシステムに依存する狭い範囲のネットワークでしかなく、せいぜいが日数のかかるAir Mailの代わり、正式には手紙で依頼するものの、先ずMailで了解をとっておく、その程度の使用価値をもっていたと記憶している。

それが《アフター・インターネット》になって一変してしまった。いま通信の世界に国境はなく、まして保有している機器のOSや属している組織の種別を実感することはない。こんな時代が到来するとは、ビフォー・インターネットの日々にあっては想像すらしなかった。

同じ程度の驚きが、"After Corona"の世界で広がっていくだろう。現時点は過渡期である。まだアフター・コロナの世界は視野にない。トンネルを抜けた直後に道はどちらに曲がっているかが分かるだけである。

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アフター・インターネットの時代になって、最も進展したのは「言葉の過剰」である。無数の「意見・提案・表現」が世界にあふれている。

流れる言葉は無限大に近づいているが、煎じ詰めてしまうと、「正義」についてか、「幸福」についてか、そのどちらかをほぼ全ての人は論じているように感じる。

「平等」とか、「公正」とか、「フェアネス」とか、かと思うと「効率性」とか、「成長」とか、「イノベーション」とか、各言語を混ぜて似たような言葉が使われるが、究極的には「自分」ないし「自分たち(≒社会)」の正義か幸福かが主題になっている。

言葉過剰とは「過剰な幸福論」、「過剰な正義論」と言ってもいい。

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正義と幸福の間の矛盾は、誰もが知っていることで、日本人なら誰もが経験する「義理と人情の板挟み」もこれに近い。400年も前の英国人シェークスピアも『ベニスの商人』の中で次のように書いている。
慈悲は義務によって強制されるものではない。天より降り来たっておのずから大地をうるおす。 
王の手にする王笏は仮の世の権力を示すに過ぎない、つまりそれは畏怖と尊厳を誇示する表象であって、そこにあるのは王に対する恐れの念でしかない。だが、慈悲はこの王笏による権力支配を越え、王たるものの心の王座にあって人を治める。 
慈悲が正義をやわらげるときだ。だからシャイロック、お前が正義を要求するのはわかるが、考えてみろ、正義のみを求めれば、人間だれ一人救いには、あずかれまい。
出所:シェイクスピア全集『ヴェニスの商人』(訳:小田島雄志)、白水社

プラトンは『国家』の中で「正義」を考えているが、正義の観念と切っても切り離せない観念は、「法」、「権威」、「掟」である。ともすれば、正義について語りたがるのは「支配する」側の人物もしくは人間集団である。プラトンもこんな通念から正義について文庫版で全2巻にわたる対話を始めている。

その展開は、複雑多岐な推論を経るが、いずれにせよ「正義」は正義を犯すことに対する怖れによって守られるものである。

「怖れ」を基礎とする観念で「幸福」を実現するのは矛盾であろう。だから、上のポーシャの台詞は、確かにロジックが通っている言葉である。

古代ギリシア以来、最高善は「幸福」であると考えるのが西洋哲学の伝統である。大乗仏教の「涅槃」、「極楽」も同じであり、煩悩をかかえる人間は幸福からは遠い。

本当は、正義と幸福とが同値であり、互に必要十分条件であれば、幸福に到達する人間は正義に反することもない理屈でもあるので、問題はなくなるが、これはまるで経済学で言う「完全競争市場による一般均衡」のようなものであろう。シェークスピアもさすがにこうは考えなかったようだ。

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