2020年6月27日土曜日

過激な「自由放任主義者」なら言いそうなこと

誕生したばかりの古典派経済学は、規制なき市場メカニズムと障壁なき自由貿易を貫徹してこそ、最大多数の人々に豊かな暮らしを約束することができる、と。そんな議論を展開していた。

それより以前、既に18世紀前半のフランスで自由主義者グルーネーや重農主義理論家が"laissez faire, laissez passer"(レッセフェール、レッセパッセ)、即ち『為すに任せよ、過ぎるに任せよ』と語っていたことを想うと、つい先ごろの米国ネオコンを超えて、「自由放任主義」というのは相当に根の深い社会思想であることが分かる(参考URL)。

中国においても、アクティビストである「儒教」とリバタリアン「道教」とが思想の2大潮流を形成してきたと大雑把にくくってもよさそうだ。

そんな過激な自由放任主義者であれば、現在の新型コロナウイルスでも「為すに任せよ、過ぎるに任せよ」と嘯くだろうか?

小生はそのように想像する。やはり「政府は何もする必要はない」と言うのではないか。そう思われる。

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何もしなければ感染者は増える。死者が増えるに従い、そのウイルスが危険であることが周知のことになってくるだろう。

そうすれば、ウイルスに関する情報が多くの人から求められる。求められる以上、情報を提供するビジネスが拡大する。情報の品質をめぐって競争が生じる。劣悪な企業は自然淘汰される。

治療にあたる医師の人数が不足すれば待ち時間という形態で医療コストが上がる。それよりは高い価格を医師に支払う方が得だと考える感染者が増える。そして医療サービス価格が上がる。医師開業もまた自由化されていると仮定する。すると、報酬の上がった医師を希望する人が増える。医師の技量は治療結果をみれば分かる。藪医者は自然淘汰される。

人々の関心は保健や医療、衛生へ向かい、感染防止や公衆衛生に求められる「行動変容」を自発的に選ぶだろう。

資格や規制など政府が何もせず、人々の自由に任せるときに必要な社会的調整は最も速く進む。

どこで何が不足し、不足した商品やサービスを増産するために必要な資源がどこにあるか、これらを全て熟知している政治家はいない。必要な社会的調整はそれが出来る当事者に任せるのが最善だ。知識や情報のない政治家が、名誉欲や野心という動機に駆られて、余計な指図をすると、必要な調整が阻害され、事態改善のスピードは必ず低下する。

だから「レッセフェール・レッセパッセ」。「政府は何もするな」。これがベストの政策である。

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確かに極端な自由放任政策という政策はありうる。

しかし21世紀の現代社会では、これほど極端な自由主義者など西欧にも、アメリカにもそうはいないはずだ。絶滅はしていないにせよ、だ。

ただ、『いまの社会は改善されなければならない』などと叫ぶ人々をみると、自由放任主義者だって、いるかもしれませんぜ、と言いたくなる。

何をすればどうなるかなど、先のことは誰にも分からないのだ ― まあ、「他の条件を一定とすれば」という教科書的な仮定を置けば、議論くらいはいくらでも出来る。が、現実には全てが予想外に変わるので、「一寸先は闇」となる。

だから、多様で極端な政治思想も含めて、ネットという場に公開すれば、社会というスケールで、というより国境を越えた広がりで、人々が閲覧できる。

アメリカだけではなく、どの国であれそのような社会であることを、多くの人は希望しているのではないか、とそう思われるのだがどうだろう。


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