2020年6月6日土曜日

「メディア」の本当の役割とは何か、について

フェースブックが投稿中の表現について規制を強化するらしい。

日経の報道の一部:
ザッカーバーグ氏は5日、表現の自由の尊重など従来の方針は変えないとしつつも、国家の武力行使にまつわる議論や脅威に関連した投稿への規制を見直すと説明した。また、内乱や紛争状態にある地域では制限を一時的に強める可能性にも言及した。
(出所)日本経済新聞、2020年6月6日

キッカケはトランプ大統領(候補)が拡大するデモに対して投稿で使った次の表現だ。
when the looting starts, the shooting starts.
略奪が始まれば銃撃も始まる
見事に頭韻を踏んでいるが、内容は確かに暴力的であり、自国民に向けた大統領の言葉とは思えない。

世間では、この投稿は暴力を肯定しているという理由で警告を出したツイッター社の判断に賛成し、投稿を放任しているフェースブックの特にザッカーバーグCEOに非難が集中している。

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小生は、何度も断っているが臍曲がりであることが自分の長所であると考えているくらいだ。

だからかどうか分からないが、今回はフェースブックの投稿放任が正しいと思っている。

 投稿をしているのは現職の選挙で選ばれた「大統領」ですぜ。国家元首だ。大統領の言葉が「不適切であるから」削除せよと、・・・「言うな」と。

 納得できません。いわゆる「反転可能性テスト」にかけてみてはどうだろう。

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新聞はメディアを自称しているが、そもそも「メディア(Media)」とは名詞"Medium"の複数形であり、「媒体」、「媒質」、「中間介在物」という意味である。会社が複数あるので"Medium"が"Media"になっている。

 例えば、音波のメディウムは主に空気であるが、水中では水がメディウムとなって音が伝わる。油彩絵具は顔料をリンシードやポピーなどの乾性油を媒質として練ったものである。媒質に混じる顔料が色々な色彩を表現するのだ。この媒質がアラビアゴムになると水彩絵具になり、媒質をほとんど混ぜず、顔料だけを固めて固形物にすればパステルとなる。

音には美しい音も不快な音もある。が、どんな音でも媒質があって伝わる。媒質には色もないし、音をたてることもない。ただ伝達機能を果たすだけである。

もし、美しい音だけを伝えることができるメディウムがあれば、この世は天国のようになる理屈だが、どんな音が美しいか不快かは聞く人の感性により主観で決まることだ。不適切な音は伝えるに値しない、伝えるに値する音だけを伝える。そんなメディアを採用するなら、それはもう「メディア」ではなく「フィルター」と呼ぶのが正しい言葉の使い方である。

不適切な投稿は公開はせず排除せよと主張する人たちは、要するに全ての投稿にフィルターをかけて公開せよと言っているわけだ。

では、そのフィルターは誰が作るのか?

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まあ、こんな小理屈を使わずとも、Twitterとは異なり、Facebookは実名登録が原則だ。

「邪悪な人物」が「不適切」な投稿をするとしても、はるかに多人数であるはずの「普通の人々」が悪質な投稿を見つけ、その不適切性の本質がどこにあるか等々について、社会で議論できるはずだ。そこにソーシャル・ネットワーク・サービス、つまりSNSの存在意義があるのではないのかなあ、とずっと思ってきたが間違いであったか。

 発言にはその人の思想、というか普段のホンネがにじみ出るものだ。ならば、本音を隠しているよりは「視える化」するほうが善いに決まっている、と多くの人は考えるはずだ(と思いたい)。

上のト大統領の発言だが、フェースブックに投稿してくれたので、むしろ良かったのではないか。できれば、前回の大統領選挙運動で上のような発言をしてくれていれば良かったのだ。そうすれば、素顔の人間性が広く明らかになるのである。

正しくその人を理解するのは選挙においては欠かせない。

不適切だから投稿を削除する。表明させないという姿勢は、不愉快な音楽は流させない、不快な音は聞かせない。そんな考え方とどこか似ている。その極端な表れ方が、階上の隣家で幼児がピアノを練習する音が五月蠅くて我慢できない、我慢できない自分は正しいと。そんな生きにくい社会にもつながっていくのではないだろうか。

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人類もまた自然史の一コマであると達観する立場からみれば、たかだか人間の脳髄が考えだしたり、話したりすることで、事物の本質に迫るものはほとんどない。「善い」とか「悪い」とか、「正しい」とか「不正である」といった自然の標識が元々あったわけではない。このようなことは何度も繰り返し投稿している。人間が発案した概念は、自然科学、社会科学あるいは倫理、政治までを含めて、全て仮説的、暫定的ななもので、最初からあったわけではない。誰かが、ある時に、言い出したことが世間に広まり定着したにすぎない。単純化すれば全てそういうことだ。

その昔、デカルトが『世間の人々が正しいと考えていることは本当に正しいのか全て疑うことから私は始めてみた』という姿勢が科学の発展の基礎になったことは何度言っても言い過ぎではない。

なので多勢の人々が『間違ってる!』と声高に主張する風景をみると、小生、いつも眉に唾をつけたくなるのだ、な。

まあ、とはいえ、世の平和のためには暴力性のある思想が、多数の人の目に入らないところで増殖してほしくない。やはり怖いし、これは切実な願いではある。故に、『間違ってる!』というデモンストレーションは行われるべきだし、社会に伝えるべきでもある。

ト大統領の発言を公開し、大統領発言に対して抗議のデモが拡大しているという今の現状そのものがSNSの存在意義であり、誰にも知られず本音を隠した人物が国家元首を続けるよりは余程有難いのじゃあないか。そう思う。

なので、メディアは言葉の定義通りメディアに徹するべきだと思うのだ。

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