2020年6月30日火曜日

断想: 求人倍率と芭蕉、40番ト短調

2020年も半分が過ぎてしまった。新型コロナに始まり、「生産的」なことはまだ何もしていないが、時間は待ってはくれない。ま、「生産的」であったかなかったかは、「人生の意義」を問う事にも似ていて、誰しも出したい答えが正解となる。なので、気にしないようにしている。


5月の有効求人倍率が公表された。季調済みで1.20倍である。前月から0.12の低下で、この低下幅は第1次石油危機直後の1974年1月以来46年振りということだが、それでもなお求人が求職を上回る1倍以上の数値を示していることには少々驚く人も多いかもしれない。

とはいえ、労働市場の情勢が悪化していることは事実であるわけで、特に飲食、観光業では空前の悪化とのこと。

他方、今後伸びてくるビジネス分野も大方見当がつき始めているところだ。オフィスビル使用の用途も入れ替わりが加速すれば、アフターコロナの「ニューノーマル」がそれだけ早くやってくることになる。

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「元に戻る」ではなく、「これからどうするか」を考えるべき時、そういうことだろう。

草の戸も 住替る代ぞ ひなの家

陸奥へ旅立つときに芭蕉はこう詠んだが、そういえば

僧朝顔 幾死にかへる  のり の松

大和・当麻寺を訪れたときのこの句も 、人間の生の短いこと、世の中の無常がテーマになっている。

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「これからどうするか」を口にする人物は数多いるが、「これからどうなるか」を観ることが、私たち人間に出来ることである。

そもそも「政治家」や「運動家」の意志のとおりに事が運ぶなら、政治など造作もないことだ。戦争に負けるはずなどない理屈だ。勝とうと思ってやるのだから。

本当の論点は、「これからどうするか」を口にする人物は数多いても、「これからどうするべきか」まで大声で叫ぶ人が急増している中で、「これからどうなるか」を明らかに示すことが出来る人物はどこにも、一人もいないということだ。

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小生が愛聴してやまないモーツアルトについては最近何度か投稿した。

亡くなった母や祖父母は、なにしろ大正文化を引き継いだ戦前の感性の中で過ごしてきたためだろうか、とにかくベートーベン崇拝の気持ちが強かったように覚えている。

今年はベートーベン生誕250周年にあたっているのだが、新型コロナの余波を被っていま一つ盛り上がっていない。

モーツアルトの何曲かは若い時分から聴いてきたし、先日投稿したようにYoutubeやAmazonのプライム・ミュージックのお陰で最近になって初めて知った曲も小生の愛聴リストに新たに追加された。ベートーベンを聴く機会はずいぶん減っているのだが、たとえモーツアルトが長命していたとしても、これは作れなかったのではないかと思ってきたのは、ベートーベンの第3番『エロイカ』である。

しかし、2、3日前にモーツアルトの40番ト短調を聴いていて、その第4楽章の展開部にさしかかったとき、どれだけこの曲が時代を突き抜けていたか、これまで覚えた事のない驚きを感じた。ともすればモーツアルトの交響曲は得意分野とされるオペラやピアノ協奏曲に比較すると内容空疎であると評されることも多いようだが、とんでもない。第1楽章から第4楽章までの全体をみるとき、凝縮されたトンデモなさという点において、40番ト短調は『エロイカ』を上回っている。突然だが、そう思った。

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