ヘイトスピーチ投稿に対する同社の姿勢が甘いという。ボイコットを食い止めようと努力はしているらしいが、FBの創業者CEO・ザッカーバーグの経営哲学もあって、「あの会社はヘイトに甘い」というイメージが形成されているようでもある。米国内第1位の携帯電話企業ベライゾン社もボイコットに参加することを決めたという報道だ。
文字通りの《政治的乱気流》である、な。
ま、この点に関する小生の立場は既に投稿した。全ての投稿は残すべきである。
フェースブックはSNSとしては既にプラットフォームとして機能している。大手メディアともいえる。
「メディア」とは多様な見解が公表される場を言うのであって、特定の見解を伝える言論ビジネスのプレーヤーではない。
本筋の理屈はそうだと思うのだが、現実は反対の方向に向かっている。ビジネスの論理から考えると非合理だが、社会の諸勢力が主導権を争っている現われ、つまりは《政治現象》であると解釈すれば合理的な説明はつく。とにかく今年のアメリカは大統領選挙の年なのだ。
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「ヘイト」と判定される投稿は、たとえそれが大統領再選を目指す現職大統領の投稿であっても「削除」するか「不適切」としてマークせよと要求する人たちがいる。もちろん、「不適切」だと主張する人々の対極にはその投稿に「共感」を覚える静かな群衆もいるわけである。故に、「削除」せよと要求する行動は政治的主張にあたる。特定の立場にたつ人々の政治的主張の言い分に従えば、それと対立する政治的立場の人々からは敵対的行為として憎まれるであろう。
プラットフォームにせよ、メディアにせよ、それは意見の媒体であるので、特定の政治的立場に与することは事業としては矛盾している。「その投稿を削除せよ」という要求をきくべきか、きかざるべきか、それが問題だ。まさにハムレットの心境にあるのが現時点のフェースブック社であるに違いない。
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自動車がこの世界に登場した時代、自動車が引き起こす悲惨な交通事故に心を痛めとても堪えられないと感じた人たちも多くいただろう。堪えられないと感じれば自動車をボイコットするだけではなく、製造販売に反対する運動を展開したはずだ。もし実際にそんな運動があったとすれば、それもまた「機械打ち壊し運動( Luddite movement)」に該当することは誰もが賛同するだろう。愚かではあるが、「人は色々」である。
あらゆる新商品、新サービスは、使用価値を認めて顧客になる集団と、それがひき起こす副作用を非難して抑圧しようとする人々へと2極化するのが常である。小生が幼い時分、ドラマ『月光仮面』が人気を博したが、いかに「正義の味方」であっても拳銃でヒトを射殺する映像を子供に向けて放送するべきではない、教育上マイナスであるという非難が巻き起こり(?)、放送中止を余儀なくされた出来事は、小生も残念でならなかったのでまだ記憶に残っている。今では苦笑を催させるようなテレビ導入期のエピソードの一つである。
最終的にその商品、そのサービスが社会に定着し、日常的風景の一部になるのは、それを不可欠だと思う人々が多数を占め、それを非難する人がいかにも偏屈であると思われるようになって、ようやく可能になる事である。
SNSが社会になければならない基盤であること自体に反対する人はいないはずだ。たとえ社会の構成員の99パーセントが投稿するべきではないという意見であっても、やはり公開はするべきだと小生は思う。2010年から12年にかけての「アラブの春」はSNSがなければ起こりえなかった出来事だろう。投稿された意見は、公開して、賛否を問われるべきである。可視化するべきなのであって、不可視化せよというのは、そう主張している当人たちの利益にも反している。
これが基本的なロジックだろう ― それにしては「ベキ論」をまたやってしまったが。
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政治がビジネスを侵食するという社会状況は、この100年余の米国史でそうあるものではなかったと思う。
The business of America is business.
第1次世界大戦後、ハーディング大統領の後を継いだクーリッジ大統領が語ったという名文句だが、同じ言葉はP. A. Samuelsonが著した教科書”Economics"の第何章であったか、冒頭のキーフレーズにも引用されていたものだ。
今やアメリカの国柄は大変化を遂げつつあるか、そうでなければ大統領選挙と新型コロナウイルス禍のさ中で米国人が熱狂を求めているのか、いずれかだろう。
前にも書いたことがあるが、
The business of America is democracy.
そんな風に言いたいのかと考えさせられる昨今のアメリカである。
日本で暮らしているとピンとこない、何かの権力、何かの抑圧に対する抵抗なのだろうと憶測するしかない。が、自らの政治的主張に基づいて経済合理性を侵食し、自らが願う方向へとビジネスを変革しようという試みは、何事によらず個人個人の着想や行動に「社会的意義」を問うて止まない社会主義と独善性という点では紙一重である点を忘れるべきではないだろう。
社会主義を信奉する人は人格的には善い人が多いのは事実だと感じている。社会主義者の多くはカネや利益を追い求めない。しかし、例外なく国民全体を政治的な支配下に置こうとする。熱意をもって、だ。必ず役所の指導が強化される。社会主義は多数の国民が支持しさえすれば極めてデモクラティックな社会を約束する理屈だ。しかし、それは理屈としては、だ。終戦直後から日本社会を支配した「行政指導」とどこが違うのか、小生にはよく分からない。
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