2020年9月10日木曜日

一言メモ: 営業自粛と補償金金額について

 例えば新型コロナ感染防止という「公益」のために特定店舗に「営業停止令」を発するとき、補償金の金額を幾らにするのが適正か。この問いには考え方によって多数の考え方がありそうだ。

例えば、閉鎖前の直近何年間かの同月をとってその平均金額を「逸失利益」として補償するという考え方が軸になるかもしれない。逸失利益というのはあくまでも「所得」である。「売上げ」ではない。「所得」であっても「可処分所得」であって、税務上の措置にもよるが税込みの金額を支給することはないだろう。しかし、所得補償で決まるとしても、店舗に付随する定額の賃貸料や減価償却をどうするという疑問も出てくるだろう。営業が停止される店は補償されるが、そこに材料を納めていた業者の逸失利益はどうするか。その業者に物品を納めていた業者の補償は・・・。際限がない。すべての事項を緊急時に個別に算定するのはまず不可能だ。算定・申請するにしても「不正受給」で摘発される業者が増えるだけであろうと危惧される。

別の考え方もある。例えば、営業停止によって増加するはずの公益の推定額のうち一定割合を補償として受給できるという考え方だ。理屈は通っているが、「公益増加推定額」など机上のフィクションであると言われるかもしれない。

まだ他の考え方がありそうだ・・・がキリがないので止めておこう。

故に、補償額は一律定額に近い形で決まると予想する。

そうなると同一業界でも経営規模に相当の格差があるという問題がある。定額給付にするとすれば、どの規模の店舗を指標とするかという問題がある。最多数のモードにするか、メディアンをとるか、平均をとるかである。

仮に、最近になってTVのワイドショーが盛んに煽っているように、現行の「新型インフルエンザ等対策特別措置法」を改正して強制力のある営業自粛を損失補償と併せて実施できるようにするとしても、その具体的な作り込みには非常に難渋すること必至である。急ぐからと言って生煮えで国会を通過すれば、かなりの混乱が発生すること、これまた必至である。

減った収入は国が補償するから……などと、単純な期待どおりにはまずならないことが予想される。


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小生の予想だが、店舗経営者に対して(控えめに見過ぎかもしれないが)月額5万円から10万円プラス家族手当。その程度になるのではないか、と。従業員は基本的に失業保険で、ということになるだろう。月額数万円というのは「基礎年金」とほぼ同じとも言えるし、ずっと昔の例を引けば一般兵士に給付されていた「軍人恩給」もまず同程度の金額であった。

古い例だが、明治になってまだ政府にカネがないとき、西南戦争が勃発した。政府は物量作戦によって西郷軍を圧倒したのだが、その分政府財政の「金欠病」が悪化した。戦後になって東京に帰還した兵士たちへの「恩賞」(≒補償)を工面するのに悩んだ。無い袖は振れない。そこで政府は明治天皇に頼った。主だった将官が立ち並ぶ前に明治天皇が出御して戦地での労をねぎらうとともにその忠義に感謝するとの詔を述べた。タバコであったか絹一匹であったかは忘れたがささやかな「恩賜」の品を賜っただけで不満を抱いていた軍人たちは心から感激してそれ以上何も言わず郷里に戻っていったそうである。

「公益」のために何かを求めるには「補償」が必要であるのは当然だ。しかし、政府の工夫によっては、必ずその補償はカネでなければならない、ということはない。そもそも、カネで全てを解決できるほど、政府はカネをもっていない。何しろ国債依存率は50%を超えたのだ。また補償をしてもらう側もカネだけで満足するというわけではないだろう。

永井荷風の晩年の短編『勲章』には出前持ちで老後の貧しい生計を立てている哀れな老人が出てくる。芝居小屋の楽屋裏の話しである。その老人も若い頃には日露戦争に出征して勲章を授与された。その勲章は老人にとって命をかけた戦場から凱旋した証であった。勲章を授与されたからといって支給される金など雀の涙である。あるとき偶然に若い俳優と勲章の話しになった。現物をもってきた老人に「軍服を着て勲章をつけてごらんよ」という話になった。老人は汚い楽屋裏で軍服を着て若い時に授与された勲章をつけた。その姿を写真に撮ってもらった。しかし、その老人は写真を見ることもなくそのすぐ後に亡くなってしまう。

マクロン仏大統領が(いみじくも)発言したように、新型コロナウイルスとの戦いは「戦争」である。というか、戦争と同じ気構えが国民に必要であると訴えるのが主旨であって、伝染病防止に求められる覚悟はその通りなのだと、この点は小生も同感だ。

公益に奉仕するために仕事を止められるのは人生をその分だけ犠牲にすることだ。ある人が引き受けた犠牲はカネで解決すればよいと、そんな風に割り切られてしまうようなら、そんな社会の公益のために自らを犠牲にしたくはないと誰でも感じるような気がする。日本で何かを再建するとすればこの辺ではないだろうかと感じる時は多い。その再建ができる前に「公益」を名目に「私権」を制限するのは確かに難しい課題だと思う。

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