今夏に開催が予定されている東京五輪。その備えに中国がワクチンを提供するとの申し出をIOCが歓迎しているという点に対して、こんな批判が飛び出している:
新型コロナウイルス感染症の発生源である中共の、国際的な枠組みに入らず、自国本位のなり振りかまわないワクチン外交に、IOCが加担するというのはどういうことなのでしょうか。そもそもIOCの財政収入は多くは米国のテレビ局の放送権料です。米国の金で中共のワクチンを買って、世界に供給して、中共のお先棒を担ごうというのでしょうか。
IOCは、中共だけからワクチン提供を受けることは、オリンピック憲章が定める「五大陸にまたがる」「5つの結び合う輪」「政治的中立」等に反するものだと言わざるを得ません。
URL:https://blogos.com/article/522536/
筆者は自民党所属の参議院議員である。
う~んと唸りながら、思わず失笑してしまいました(≧Д≦
オリンピックの理念は政治から独立するという点にある。例え、戦争当事国であっても競技の場に選手が出場することを許し、スポーツの形をとって決着をつけるというのが、古代ギリシア以来のオリンピック精神だろう ― 現実にはどれほど「西側先進国」の政治家に翻弄されているとしてもだ。
五輪憲章の明文規定の一言一句、法律家のように解釈して、IOCの行為の是非を論ずるよりは、原点となったオリンピック精神から逸脱しているか否かがはるかに本質的であろう。
ワクチンを提供されて、「五輪開催」のどこが困るのだろう?十分にあれば謝して辞退すればよく、なくて困っているのであれば有難く受け入れれば済むのではないのか?そこに「政治」を関連付けること自体がオリンピック精神を冒とくしているのではないか?
そもそも、自民党の国会議員が「政治的中立」を論じるという行為自体が、オリンピック運動に政治を持ち込んでいるということにならないか?
そう思いますがネエ・・・
★ ★ ★
話しはまったく変わるが、宇能鴻一郎は芥川賞作家であると同時に、古典的ポルノ小説を開拓したイノベーターであり、かつミステリー作家としても独自の境地を築いた《天才》であると小生は目している。
同氏の最晩年(と言うのは甚だ失礼の極みなのだが)に発表されたのが『夢十夜』であるが、これがまたミステリー的要素がふんだんに含まれたポルノ的純文学になっている。悪く言えば「ごった煮」であるが、よく言えば「総合文学」である。
が、最も奇抜な警句に満ちているのは巻末の「あとがき—気のむくままの謝辞と補注」である。
男はタネをばらまく性だが可憐な相手はつい愛してしまい、すると広くタネを散布できなくなる。男にとって愛は性の敵だ。女は男を育児に協力させるために愛で縛る。だから女は愛と性が一致している。
小生:近頃は、「なんで女が男を愛さなければならないの」というジェンダーフリー思想が市中で蔓延して、愛じゃなく、法律をこさえて男を縛ろうとしていますヨ。
先生: へえ~~~、そんな法律を大真面目に作ろうって政治家先生がいるのかね?
小生: 世の中の半分は女ですからネ。それに齢をとると女の方が数が多いし、元気です。政治に出張ってくれば法律も思いのままで、そうなりゃ男は女に縛られる一方でさあ・・・
夢でこんな会話をした。
一番面白いのは次の一句だ。平和主義者にしてサラリーマン小説を幾編も書いた山口瞳について。
彼は「平和憲法を守って滅びた国が一つくらいあってもいい」と言った。「全国民が死んでも日本精神は残る」と言った軍部を連想する。
本を読んで勉強して、「言論」というと聞こえはいいが、つまりは「話芸」、「話業」 で国の方向を考えようという人たちの不毛さがよく表現されているではないか。
統計分析家の座右の警句に
All models are wrong. Some are useful.
モデルは全て間違いだ。が、役に立つものがある。
この伝でいうと
頭で考えた「理念」なんて全て間違いだ。中には世の中の役に立つものがある。
世の中の役に立つとは、インフラを支えている人、生活の役に立つモノを作っている人、役に立つモノを作るためのモノを作っている人、そんな人々の役に立つということである。
アダム・スミスは、「生産的活動」から全てのサービスを除外した。しかし、商業や運輸は明らかに生活の役に立つ。そこでサービスの一部が生産的活動に入るようになった。
医療もそうだ。理髪店、美容院もそうだ。金の貸し借りを仲介する金融活動も生産的だと見なされるようになった。
そして最後に芸能、お笑い、ニュースキャスターまで世の中の役に立つ活動に含まれるようになって、今日に至るのだが、少し広げすぎたのではないか。
金銭的報酬をうけとるからといって、何の役にも立っていない(ようにしか思われない)活動は確かにある。それどころか、「大麻販売」のように金銭的報酬を伴うが、世間に害を与えているような「反社会的活動」もある。逆に、家庭を支える主婦、家族、親族、あるいは近隣、町内を支える活動をしている高齢者のように、金銭的報酬はないが、世の中の役に立っている活動をしている人は厳としている。《生産の境界》(Boundary of Production)の問題はいまでもなお今日的である。
理屈で言えば、役に立つ人は頑張ってほしいが、役に立たない人は活動をやめてもいい。
宇能鴻一郎は「生産的」な行為を生業として来たのか?そう問われれば、氏は『何の役にもたっていないよ』と言うかもしれない。小生は、氏の作品を読んで楽しんでいるのだが、確かに「だから世の中の役に立っている」とは、言えないような気も実はしているのだ、な。そういう意味では「純文学」というより「戯作」なのかもしれない。戯作を書くのは、「生産」ではなくて、それ自体が「消費」だろうて。つまりは同好の士がカネを出し合って楽しむのと何ら変わらない。楽しんでいる以上、消費である。読者が払う販売価格は生産物に対する「対価」というより、楽しませてくれることへの「御礼」である。サービスの種類によっては「御礼」というより「施し」にすら似ている支払いもあるかもしれない。経済計算の用語を使えば「移転」と呼ばれる支払いに該当する。細かな話をすれば、価格に含まれる印刷経費、出版に関わった人の人件費などは、たしかに商品の裏付けがあるので「生産活動」に計上するのが筋だろう。
何を付加価値と考えるか、そこには「人類の役に立つとはいかなることか」という問いかけに関する価値判断が伴うわけだ。カネの流れと価値の生産とは別の事柄であることが現代社会ではしばしば忘却されている。
ま、「経済計算」というのは細かくて面倒だが、真面目に取り組まないと社会経済がスカスカになっていても、その事実に気がつかないことになる。
オリンピックから宇能鴻一郎に、更には経済計算へと、ずいぶん話が飛んでしまった。いずれにしても、一家族が生きていくうえでも何か問題が出て来れば手間取るものだ。解決が難しいこともあるのに、社会の問題となるとなおさらだ。その問題は現実の中から生まれる。問題解決に役立つことの中に「話芸」や「話業」はない。これは日常経験からも(実は)自明のことである。必要なことは「行為」である。ひょっとすると話し上手はマイナスであるかもしれない。これだけは時代を問わず、国を問わず、言えることだろう。
だとすると、国にとって「政治」は大切な行為であるのに、なぜ政治家に「話芸」を求める人たちが多いのだろうか?不思議な現象である。話し上手な芸術家やアスリートを多くの人は評価するだろうか?
0 件のコメント:
コメントを投稿