最近の疑問を簡単にメモにしておきたい。
『価値観を共有できるかどうか』が、ここ近年の決まり文句になっている。ところが、その価値観なるものを聞いてみると、人にとっての普遍的価値は「幸福」であるでもなく、「命」にあるでもなく、「福禄寿」でもなく、要するに「人権、民主主義、法の支配」だ、と。
「何だよ、それ」と言いたくもなるのだ、な。
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『そんなもの、あっしにゃあ、かかわりのない事でござんす』と言いたくなる。
《人権・民主主義・法の支配》の3点セットに対しては、《統治権・徳治主義・賢者の支配》を持ち出すとしても、個人的にはそれほど反発を感じない。前者のセットでは国民は幸福になり、後者を認めてしまえば国民は必然的に不幸になるとも思われない。いい時はいいし、ダメなときはダメ、社会体制に関して最適解などはないと小生は思う。
フランスは旧体制(=アンシャン・レジーム)を打倒して民主的な新体制を確立したが、旧体制から新体制への前と後で、平和になったか、落ち着いた暮らしが出来るようになったか、善い人が増えたか、悪い人が減ったか。小生は体制選択などは単に好き嫌いの話しだろうとさえ思っている。
結局、「民主主義は善い」という大前提を置いてしまうかどうかで以後の議論は決まるのである。困ったら「この公式がありますよね」という不変の真理に訴える感覚だが、実際にはそんなものはない。民主主義が体制の最終形であるかどうかは、歴史的にも反例が多数あり、空間的にも反例が多数あり、その普遍的価値が実証されているとは言えない。
であるにもかかわらず、民主主義は善いという公理をおいて議論を進めることは科学的でない。
こんな空虚な議論につきあうよりは、昔ながらの
惻隠之心 仁之端也 (惻隠の心は仁のはじめなり)
羞悪之心 義之端也 (悪を羞じる心は義のはじめなり)
辞譲之心 礼之端也 (辞を低く譲ろうとする心は礼のはじめなり)
是非之心 智之端也 (是非を知ろうとする心は智のはじめなり)
孟子による徳の四端説の方が余程ピンと来るというものだ。社会で大事な要素は、権利、主義、支配という言葉ではなく「思いやり」であろうという指摘は、現代日本社会の現実を見る限り、いわゆる「共有するべき価値」よりも遥かに有効性がある。
正直、そう考えてしまいますがネエ・・・
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ここはデカルトの昔に戻って『我思う、故に我あり』。健全な懐疑主義に立脚して、世の中で正統派とされている議論は、全て疑ってかかるのがよい。
価値観を共有できるかどうかが鍵だ、というのは言い換えると「俺たちの側につけ」という恫喝と本質的には同じであるとみる。
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