2021年3月8日月曜日

一言メモ: SNSへの政治的投稿の是非について

ロシア政府がフェースブックに対して不満であるとのことだ。自由な(政治的)投稿が制限されているというのが理由だ。

モスクワ 8日 ロイター] - ロシア当局は8日、米フェイスブックに対し、一部メディアの投稿を掲載せず市民の権利を侵害したと批判した。

通信監督当局はフェイスブックに最低100万ルーブル(1万3433ドル)の罰金を科すと警告、タス通信や「RBCビジネス・デイリー」などが投稿したコンテンツへのアクセスを回復させるよう要請した。

ロシア側の主張によると、フェイスブックは、ウクライナ極右集団の支持者とされる人々の拘束に関連した投稿をブロックした。

ヴォロージン下院議長は「これは法に反しており、受け入れられない」とし、フェイスブックは知る権利や知らしめる権利を侵害したと批判。ロシアの「デジタルにおける国家主権」を維持するための法案を提出する方針を示した。

フェイスブックのコメントは得られていない。

(出所)ロイター、2021-3-8 7:28 pm配信


「報道の自由」は、「情報アクセスの権利」や「表現の自由」と併せてよく議論される問題だ。

今日は、SNSと政治との関連でソモソモ論を書いておきたい。

そもそも政治的投稿については、フェースブックの創業者マーク・ザッカーバーグが信念をもっていて、SNSは社会を構成する個人が自由に議論する場を提供しているだけであると強調していた。

ところが、大手マスメディア企業がその姿勢を非難し続ける中で、徐々に政治的投稿を厳格に規制する方向へ転換してきたという経緯がある。

その一方で、大手マスメディア企業は、自社の政治的立場を鮮明にし、先の米・大統領選挙では(是非はともかく、余りにあからさまに)バイデン候補にとって有利な紙面を編集し続けた(と言われている)。 

これは本ブログで何度も投稿した点だが、メディア企業は擬制された法人であって、具体的な個人ではない。つまり有権者ではない。

そんな組織が社会の中で自由に政治的主張をする権利があると考える一方で、SNSという場で個人が政治的主張を述べる投稿を嫌悪するというのは、身勝手であり、矛盾しているだろう。

個人がどんな政治的主張をしても民主主義社会では当たり前のことであって、必要でもある。SNSはこれを可能とするもので一人一人に政治参加への道を開く。この意味で非常にイノヴァティブなツールなのである。

他方、何十万部、何百万部もの新聞を発行したり、全国の視聴者にTVを通して自由に声を届けられるメディア企業が、政治的見解を意図的・継続的・統一的に主張することを、許してもよいのか、悪いのか? 社会の中で決定的な影響力をもつ報道機関が自由にその影響力を行使してよいのか、悪いのか?こちらの方がより微妙な問題だろう。

個人とメディア産業の巨人とは適用するべきルールが違うのが当たり前だ。

なので、今回はロシア政府の方に一分の理がある。と同時に、投稿者がメディア企業ということであれば、不当な影響力行使という理由から投稿を規制されても仕方がない。大企業がSNSで組織的プロパガンダを展開するのは、SNSの目的から逸脱している。そんな風に思うのだ、な。

その一方で、個人による投稿は、明らかに犯罪行為を扇動するという反社会的意図に基づくものでない限り — これさえも民主化運動を支えるインフラにもなることを想えば慎重に判断するべきだが ― すべての投稿を原則自由にするのが本筋だ。間違った思想や見解は、SNSという場で淘汰していく。その淘汰のプロセスを視える化するというのもSNSという仕組みの一つの目的である ― 「淘汰」に手間取るならば、それが社会の現実を視える化したということでもあり、これまた直視するべき真実であろう。





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