2021年4月21日水曜日

「価値の共有」・・・「社訓の強要」に似ているかも

今日は徒然なるままに。

どこかの共産主義者が『宗教はアヘンである』と言っている。

それを拡張して小生は以下の警句にしたものだ:

思春期の前は、おとぎ話と冒険譚。

働き始めるとイデオロギーが、

老年にさしかかり自分の人生が見え始めると宗教が、

心のアヘンのようにその人の精神を蝕む。

中には、前をとばして後の段階にいきなり進む早熟な人もいる。ある人は、次の段階に進まず、ずっと同じところにいる進歩のない人もいる。

いま、共産主義の理念を真剣に語る国はない。ロシアはもう社会主義国ではない。中国共産党が統治する中華人民共和国も共産党が一党独裁をしているだけであって、社会主義は既に捨て去っている。理想であるはずの共産主義へ至る夢も内心ではもう諦めているに違いない。経済格差が拡大しているのは、いわゆる《西側諸国》と同じだ。

その《西側諸国》はいまイデオロギーを強調している。何かあると「民主主義ですから」とくぎをさす。論争になると「自由、民主主義、人権、法の支配」という価値を共有できるのかと言って異論を抑え込む。

共有されなければならない価値観に何か言えば、直ちに非難され、『神聖なる価値観を冒とくした』という意味合いの社会的攻撃を受ける。実質的には、宗教による支配に似ている。イデオロギーから宗教へと進む所以だ。

価値観を冒とくするような異論を抑え込むという点においては、西側諸国と現代中国と、お互いに相通ずる面もある。

毎日の朝礼で「社訓」を唱えさせる会社は日本国内にまだあるに違いない。そんな会社のポテンシャルは、低いかもしれず、高いかもしれない。ただ、多様化の時代と整合的であるはずはなく、人は非流動的になり、閉鎖的な社風になるような気はする。

そこにいる人は幸福かもしれないが、途中入社は嫌だろうなあということは分かる。国も同じ事だろうと思う。

上から下へ、あるいは多数派から少数派に、『その考え方はダメだ』ということをお説教のようにあまり言わない国が、住みやすい国である。かつ、生活水準が高ければ、そこで暮らしたいと思う人は多いだろうし、そんな人が普通なのだと思う。


「正しい事」はヒトの頭の中には存在しない。ヒトは何が正しいか決めることは本来はできないはずだ。「法的に正しいことが正しい」という考え方は単細胞の議論だ。法が正しい法であるという前提に立って展開する三段論法の結論として得られるのが「法的には正しい」ということである。全てロジックというのは、この程度のものである。人は経験によって客観的な真理について学べるだけである。意味のある真理は、ヒトの脳みそではなく、外側の自然の中にある。自然の中の人間社会にある。誰であろうと、正邪善悪について何かを語る人は、例外なく間違っている。この当たり前のことを大多数の普通の人が理解してきたのが、近代以降の200年余りの歴史であろう。それによって、世の中はずいぶん住みやすくなってきた。これが小生の基本的な歴史観、社会観なのだ、な。

(小生にとっては)この当たり前のことが分かっている国が、いわゆる《進んだ国》である。反対に、何が正しいかを誰かが判定できると国民が信じている国が《遅れている国》である。「先進国・後進国」という言葉には差別感が込められていると思うが、このくらいの違いは国々の間にあるだろう。

またまた下らないヨタ話を書いてしまった。今日はこの辺で。

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