前稿では三島由紀夫のことを書いたのだが、これまで荷風や漱石はともかく、「三島」について何か投稿した記憶はないなあと思って、ブログ内検索をかけてみると、『葉隠入門』に関連して2回ほど書いていることがわかった。
ま、確かに『葉隠入門』というのは面白い本である。投稿した日付は2011年11月と、2017年7月になっている。2011年といえば10年も前だ。
その時は次の下りを引用している:
合理主義とヒューマニズムが何を隠蔽し、何を欺くかということを「葉隠」は一言をもってあばき立て、合理的に考えれば死は損であり、生は得であるから、誰も喜んで死へおもむくものはいない。合理主義的な観念の上に打ち立てられたヒューマニズムは、それが一つの思想の鎧となることによって、あたかも普遍性を獲得したような錯覚におちいり、その内面の主体の弱みと主観の脆弱さを隠してしまう。常朝(加筆:著者の山本常朝のこと)がたえず非難しているのは、主体と思想との間の乖離である。・・・もし思想が勘定の上に成り立ち、死は損であり、生は得であると勘定することによって、たんなる才知弁舌によって、自分の内心の臆病と欲望を押しかくすなら、それは自分のつくった思想をもって自らを欺き、またみずから欺かれる人間のあさましい姿を露呈することにほかならない。(新潮文庫版63頁)
10年前にこんなことを考えていたのか、と。やはりブログというのは思考のWeblog、作業日誌として役立つものであるなあ、と。いま現時点でも、いや特に足元の社会状況をみると、ますます一層、上のような感想をもつのだ、な。
タレーランの言葉だが
La parole nous a été donnée pour déguiser notre pensée.
人に言葉が与えられたのは、思っていることを偽るためだ。
語る人、話す人が偽る相手は、世間であるばかりではなく、実は自分で自分を騙すために言葉を使う。人間のそんな不誠実が許せないという心情が、三島由紀夫という人物にはあったのだろうし、そんな傾向には心底から腹が立つという感情は小生だけではなく、いま多くの人が共有しているような気がする。
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