2021年4月4日日曜日

ジェンダーフリー: 社会思想の「流行り」の一例なのだろうか

ジェンダーフリー論が盛んである。近代社会の伝統である《機会の平等》ではなく、男女間という一つの切り口における《結果の平等》を求めるところに、いわばポストモダン的な新鮮さ(珍奇さ?)があると思っている。

小生が若い頃は「結果の平等」はむしろ「悪平等」と言われていたものだから、結果の平等を世の中で堂々と主張する時代がやってこようとは夢にも思わなかった。ずっと昔、運動会の徒競走ではゴールの手前で先頭を走っていた児童は後続を待ってあげ、みんなで手をつないでゴールインするように指導した担任教師がいたように記憶している ― 走力の違いが視える化されてしまう徒競走をやめればよいのにと小生は思ったものだ。通知表でクラスの全員に評点5を与えて物議をかもした先生もいた ― 単純な成績評価不要論である、な。

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一つだけ絶対的に言えることは、人間社会の活動は2種類に分類されることだ。

一つは生命の現実、というか社会の物質循環という暮らしそのものを指し、経済学の対象となる。自然の一部として機能しているという人間社会の片側の側面でもある。この側面は自然の物質循環に織り込まれているので、すべて自然科学の法則にしたがう。たとえ人間以外の動物であっても自然を構成している以上、自然法則にしたがい、自然を活用しながら生きているのは人間と同じである。

人間活動のもう一つの側面は、自然の一部として展開されているのではなく、人間が創り出した世界で行われている活動である。自然とは関係のない超越的な信仰や哲学、抽象的概念を使った思想活動はすべてここに分類される。そもそも「神」なる観念をもっているのは人間だけだろう。騎手を乗せて走る馬が人を神だと思いながら走っているなどとは想像ができない。蝉が極楽往生を願っているなどは人間の空想で、それこそ人間独特の妄念というヤツだ。

前者は「形而下」であり、後者は「形而上」と呼ばれる ― 「形而上学」とは言わないでおこう。主旨をまとめるには十分だと思うので。

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今日はこんな視点から考えてみる:

今日の標題にもしているように、可能性として、ジェンダーフリー思想は20世紀終盤から21世紀初めにかけて影響力が高まった「流行りの思想」の一つとして記憶され、現実には無力のままでやがて忘れられてしまうかもしれない。

思想上の似た例としては、「社会進化論」がある。19世紀後半のビクトリア朝イギリスにおいて一世を風靡した時代の潮流であったにもかかわらず、20世紀になってからは一気に退潮してしまった。

特に有名な主唱者はハーバート・スペンサーで、いわゆる「適者生存」(survival of the fittest)という言葉を造語したのはダーウィンではなく、スペンサーの方である(Wikipedia)。この社会進化論がインド・東洋に進出した欧米列強を正当化する思想的基盤として機能したことはもはや歴史の彼方になったが、リアルタイムで生きていた当時の人間達にとっては抵抗し難い「真理」であったのだ。「優勝劣敗」という大原則と強者が弱者をいたわる「慈善の精神」が古典的な資本主義社会を支える理念であった。マルクス・レーニン的な共産主義思想は結果としての平等を実現しない限り、貧困や不平等問題を根本的に解決することはできないという認識に立ったところが違っていた。日本に社会主義思想が輸入される前の明治前半、このソーシャル・ダーウィニズムが近代日本の発展を支えるイデオロギーともなり倫理ともなっていたことは、もう現代日本人のほとんどが忘れ去っているかもしれない。

思想には「流行現象」があるのだ。そして、時代を動かす潮流となりうるのは社会から求められている思想に限る。その他の思想は一時的には支持されるがやがて忘れられるものだ。

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思想は、それ自体としては形而下の自然現象とは無縁で、人間社会の物質循環とも関係がない、ヒトが創り出した言葉の世界にすぎないが、だからと言って、現実の社会を変える力を持ちえないというわけではない。

政治がしばしば"Sophisticated Art"(=洗練された技芸)と呼ばれたりするのは、生活に密着する現実の問題を解決したいというのが最終目的であるにも拘わらず、その解決へのアプローチでは高尚な哲学的観念を口先であやつり、多数の人間をその気にさせ、結果として形而下の現実問題を解決しようとするからだ。権力・武力・腕力に訴えて欲しいものを獲るという解決法は自然社会でも観察される形而下の直接的方法で、動物でも考えつく(?)行動である。だからこそ、それ自体は空理空論である信仰、哲学、主義、思想で問題解決に成功すれば、人は称賛するのである。

まさに

人の生くるはパンのみによるにあらず

人間が人間であるのは、信仰|思想を考えうるところにある。 

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ジェンダーフリー思想があるのは、この次元においてである。

結果として社会における処遇と役割、組織内の処遇と役割、家庭内の処遇と役割において男女は平等であるのが善いのだという思想は、いうまでもなく、ヒトが思いついた思想である。現実に、雌雄異体であるあらゆる種の生物において、男性と女性が世代交代に果たす役割は動物行動学の知見を待つまでもなく明らかに異なっている。この自然界の現象について、ヒトがヒトの視点にたって、これは善い、これは悪いと価値判断してみても、ただ愚かなだけである。

故に、ジェンダーフリー思想は明らかに人間固有の価値判断から由来した形而上的な思想である。

直接的な目的は「結果の平等」である。つまり事後的な違いを無くすという試みである。本気で実現しようとすれば巨大な社会的エネルギーを投入する必要があるだろう。

それだけの社会的エネルギーを求める試みと不平等を解消しようとする《共産主義思想》と、どう違うのか、どこが違うのか、旧式な小生には分からないことが多い。男女間の違いのみをターゲットにしているが、詰まるところ、名前を変えているだけではないかという気もしたりする。部分集合の要素は全てそれを含む全体集合の要素でもあるから、ジェンダーフリー思想に沿った政策提言は、全て共産主義に沿った政策提言にも(結果として)なるのではないか。

●●フリーという名前から感じる印象とは裏腹に、追求している中身は社会計画(=統制?)を志向している。それはそういう思想であるからだろう。

ジェンダーフリー思想は共産主義思想の一部分を構成するように小生には思われるのだが、実際にはそうではないのだろう。そうではないとすれば、どこがそうではないのか?確かに使用している言語は違う。しかし、言語と言うのはトーマス・カーライルがいう様に、究極的目的を飾る衣裳である。目指す最終地点が同じであれば、途中で使う言葉の違いは「カーテンの図柄」の違いでしかない。だから、ジェンダーフリー思想は小生には分からないことが多い。

一つ言えることは、不平等問題が拡大してきた1980年代初頭以降の40年間で、財政の限界と福祉国家理念の限界が意識され、社会主義・共産主義思想の説得力が高まってきた、このような思想上の変動が現実に社会を変える役割を担っていくとすれば、結果としてジェンダーフリー思想が社会を変える影響力を行使した、そんな外観を呈することはありうる。

ま、いまの受け取り方はこんなものなので、メモっておいた次第。


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