昨日の投稿に次の下りがある:
「優勝劣敗」という大原則と強者が弱者をいたわる「慈善の精神」が古典的な資本主義社会を支える理念であった。マルクス・レーニン的な共産主義思想は結果としての平等を実現しない限り、貧困や不平等問題を根本的に解決することはできないという認識に立ったところが違っていた。日本に社会主義思想が輸入される前の明治前半、このソーシャル・ダーウィニズムが近代日本の発展を支えるイデオロギーともなり倫理ともなっていたことは、もう現代日本人のほとんどが忘れ去っているかもしれない。
一言、補足をしておこう。
人間社会を牢獄のような「身分制社会」から解放して、個人個人がもって生まれた生来の才能を開花させ、優れた人が富と力を蓄え指導力を発揮できる「自由な社会」に変えること。これが 「市民社会」の最高の理念だった。
個々の人間の違いがそのまま社会の実相となって反映される自然な状態。これが理想的な状態でなければ、何が理想なのだろう?
近代社会の意義は上の問いかけにある。
以前、旧友に問いかけた疑問がある。その旧友は、現代資本主義社会に深い疑問をもっている。つまり、平等こそ目指すべき価値であるという信念をもっている。
そこで小生がきいたのだが
要するに《完全な平等》が最も善いということなのかい? 毎月の所得は全員が同じであるようにする。財産も完全に平等になるように再分配する。もし不平等が生まれれば、もっている人から持っていない人に移転させる。そういうことかい?
友人はいった。
そうじゃないよ。
そこで小生は
じゃあ、完全な平等が最善だというわけではないとすれば、どの位の不平等が最善なのだ?
適切な解答などは、この世のどこにもない。誰も分からないのである。「ベーシック・インカム」に賛成か反対かを問う話しであるなら、「アッ、要するにそういうことだったんですか」となるわけで、個別的かつ小さな話しである。
完全な平等を実現するには強大な権力と権力による監視が必然的に伴う。そんな社会に対する嫌悪から「市民革命」があったのではないのか?
そのときはそんな話をしたのだった。
自由と許容できる不平等とを何とか両立させる以外に上手なソーシャル・マネジメントはあるのだろうか?
少なくとも
社会主義・共産主義への道は悲惨と失敗に満ちている苦難の道でしかなかった。
これが事実である。
中国共産党の成功は、共産主義を逸脱して「改革開放」を選んだからである。ソ連共産党は中国共産党よりも遥かに忠実に社会主義の理想を目指したが、最後には非効率と停滞に沈没して消滅した。他の例も数えきれないほどだ。
平等を求めることは本当に善いことなのだろうか?
確かに神の前に人間は平等である。宗教ではそうだ。厚生経済学でも平等は不平等よりも善いという大前提を置く。
しかし、小生はこの疑問に対して、即座に「その通り」と応える気持ちは徐々になくなってきている。昔は迷いなく肯定できたが、色々な分野であまりにも反例に満ちているのが、この社会の実相ではないだろうか。
いま直面している問題は、理念や体制に源があるのではなく、適切な方策によって解決可能である、経済政策その他の政策の組み合わせによって解決できる問題である。こんな風に観ている―逆に、総合的プログラムがなぜ審議されないのだろう、と。それが不思議だ。
0 件のコメント:
コメントを投稿