東日本大震災はもう10年の昔のことになってしまった。
試しに《エネルギー 基本計画》でブログ内検索をかけてみると、出てくる、出てくる。実に大きな問題であったのだ。
今回、菅首相が2050年にカーボンニュートラルを実現して脱炭素社会を実現すると宣言し、そのため2030年までに温室効果ガス46パーセント減少を目指すと世界に公約した。実は、50パーセント削減を強要される対外圧力をも覚悟していたというのだから、もはやこのテーマも待ったなしになった。
覚え書きに上の検索結果をリストアップしておこう:
- 総理突出、これは破壊か、創造か?
- 意識改革の必要性
- 自然エネルギーは原子力の代わりになりうるか?
- ドイツの「脱原発」決定に思う
- 復興の経過覚え書き(その2)
- リンク集 — エネルギー政策・原発・復興構想
- 「確実な議論をしましょうよ」症候群の再発ですな、これは
- 壮トスルナリ、退陣三条件と震災復興
- これまでの超長期・将来予測を棚卸しすると
時系列的には順不同で、網羅的でもないが、きりがよいのでこれ位にしよう。
<2030年までに温室効果ガス46パーセント減>を世界に公約、というのは大変なことである。足元のコロナ変異型抑制、百貨店休業要請など、3年もたてば、誰も覚えていないだろうが、今回の脱炭素化宣言は日本社会を根本的に変えてしまう。どう変えてしまうのかをいま考えなければ、今後の政策は必ずこの方向で進められる。暮らしや雇用に目に見える形で変化が現れ始めてから「情報番組?」を編成しても、時は遅し、なのだ。
ところが、TV放送ではどこもかしこも、緊急事態宣言一色である。日本のマスメディアの惨状にはただ絶句するばかりだ。
わずかに夜10時枠に移ってきた『ワールド・ビジネス・サテライト』がまだニュース番組らしいので、それを観て情報収集の助けとしている。自分で調べるよりは効率的にまとめてくれるので役に立つ。
この「自分で調べるよりは効率的にまとめてくれる」という実感が、TV、新聞などマスメディア企業が存在する唯一の根拠、唯一の存在価値である。
メディア企業自らが、何かを主張し始めて、お説教を始めた瞬間に、なくともよい活動に転化する。存在価値を失う。なぜこんな簡単なことが分からないのだろう。
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『この簡単なことがなぜ分からないのだろう』と言うなら、ほかにもある。
最近になって、自粛要請に従わない少数の店舗、少数の若者、少数の高齢者がいて、感染抑え込みの障害になっている、と。そんなコメントを放送する「情報番組?」が増えてきた。
「危ない人」がいるのは当たり前である。ごく一部の「危ない人」が「危ない店」に集まるのは当たり前である。なぜこんな簡単なことが分からないのだろう。
8割の人は真面目に要請に応えるが、2割の人は自分のしたいことをするのである。日本人だろうと、外国人だろうと、この人間性は変わらない。なぜ「日本人は特別なんです」とか、「日本人には出来るのです」とか、根拠もなく、なぜ空虚なコメントを出し続けてきたのだろう?
社会で生きている人間は多様なのだ。全員が共同行動をとれると、なぜ信じられるのだろう?小生には、その発想がまったく分からない。日本も外国も同じである。外国で必要なことは日本でも必要である理屈だ。
日本も日本人も何ら「特別」ではない ― 運・不運は、マア、あるだろうが。
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あおり運転を厳しく糾弾しても、今もなお、あおり運転をするドライバーはいる。飲酒運転に厳しく対処するために危険運転致死傷罪が導入された。もう何年もたつ。しかし、今なお飲酒運転は後をたたない。
法改正をして厳罰を導入しても日本人の一部は国民の多数から期待されているようには行動しないのである。当たり前のことだ。これが単なる「要請」ならもっとひどくなる。何故分からないかなあ、と。コロナだけはその例外的ケースだとなぜ考えるのだろう?
したがって、何かの行動変容を国民として実現したいなら、まず新しい法律を最初に立法しなくてはならない。まずルールを明確化することが第一歩である。
この簡単なことが何故分からないのだろう?
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理由は明白である。
新型コロナは、感染症としては、真の国家的危機ではない。
政府上層部はそう考えている。これ以外に、この1年間の推移は説明できないのではないだろうか。
であれば、我々、国民の側においても、それほど神経質に、過剰に命の危険を心配する必要はない。
実は、多くの日本人は、口では言わないが、心の中ではとっくにそう思っている。その心が行動に出るのである。そうでないなら、どういうことなのか、教えてほしい。
コロナ禍は現実の問題だ。イデオロギー闘争ではない。だからホンネで議論をしなければならない。タテマエ論は有害無益なのだ。
こんな簡単なことが分からないのだろうか?
コロナウイルスから命を守るとしても、世の中には色々な病気や原因があって、思わぬときに命を落とす。この世の中は危険に満ちている。寿命というのは、究極的には、その人の運命である。こう考える観点も確かにあるといえば、あるだろう。
こういうことではないだろうか。
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