21世紀の序盤という今の時代を特徴づける一つの側面に「若さの賛美」という傾向が挙げられると思う。
小生が若かった時分はこんな感性はなかった。そもそも「きみ、若いな」というのは、この上なくネガティブな警告であったのだ。その当時、信頼できる人物を形容する表現は「あの人は分かっている人だから」という言葉だった。「酸いも甘いもかみ分けた人」と言ってもほぼ同じだろう。
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この背景、というより「傍証」と言うべきかもしれないが、小生が若かった頃の大人たち。その人たちは、大体が大正10年代以降で昭和1桁までに生まれた人たちであったと思うが、多くの人が軍国主義の教育を受け、赤紙が来て召集されるか、あるいは昭和18年の「学徒出陣」によって召集された経験をもつ。つまり戦争経験をもっている世代だった、という点が大きかったのじゃないかと思う。
考えてもみたまえ。「戦争」に参加すること以上に、「酸いも甘いも嚙み分ける」ことの重要さを教えてくれる実地教育の場がありうるであろうか?戦争という究極の「現場」では、どんな気の利いた言葉も刻々と押し寄せる事実によって消し去られてしまう。実質を理解した強い言葉だけが言葉として機能する。そんな強い言葉を発するには「多くの経験」が要る。経験に裏打ちされた強い人物は、言葉ではなく、沈黙によってさえ、力を発することができるものだ ― たとえTV画面、いや単なるマイクを通してでもだ。
人は、言葉そのものでなく、言葉を通してその人の中身を知りたいと思うものだ。中身とは真の知識であり、それは経験を通して以外には獲得できない。そこで話は「酸いも甘いも嚙み分けた人」に戻る。
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だから、と必ずしも言えないかもしれないが、カミさんの父は東北帝大の法学部に在籍していたが、学徒動員で召集され、敗戦時には中国戦線にいたそうだ。家族は戦死を覚悟していたが、終戦後3年も経ってから骨と皮ばかりになって郷里・松山に生還した時には、みな言葉を失ったそうである。ところが、その亡くなった義父は、生前みずからが参加した戦争について、一切語らなかったそうである。だから義父が経験した最前線の様相を知る人は誰もいない。「武勇談」、「冒険譚」などという言葉とは一切無縁だったのが、戦争を経験した義父の「戦後」であった。ずっと昔のホームドラマの名作『だいこんの花』では「戦友の絆」がドラマを支えていたが、比較的早くに亡くなった生前の義父の暮らしぶりをカミさんから聴いていると、どうも「戦友の絆」などというウケのいい話は戦争を知らない脚本家が創作したフィクションではないか、と。そんな風に思ったりもする。
小生の実父は京都帝大の工学部で応用化学の勉強をしていたため召集は引き続き免除されていた。それに京都は空襲もなかったのだが、そうであっても食料がないのは他の地域とまったく同じ状況であったそうだ。「ある日」と父は言っていたが、実は「頻繁に」であったのじゃあないかと今では推測しているのだが、夜陰に紛れて農地に忍び込んでは芋や豆を盗んでいたそうである。大学の研究室で「合成調味料」なる物を試作しては、盗んできた食物を調理してその日の食事にしていたそうである。この話は子供の頃の小生が聴いても大層面白かったのだが、父から聞いた戦争中の話しはほぼこれだけである。京都で送っていた下宿の生活、家族との連絡、友人たちとの交流など、そんな雑多な話題について父が思い出を語ったことは、愉快な話はもちろん、辛かった経験も含めて、語ったことは一度もない。
父が盗んだ農作物について、話した以上に詳細を語らなかったのは、それが決して名誉なことではなく、やむを得ないとしても、犯罪であると自覚していたからであろう。人の物を盗むという行為は決して「愉快な思い出」にはならない。むしろ「恥ずかしい思い出」になる。父の心情を今になって憶測したりしているのだが、まさに『羞悪(しゆうお)の心は義のはじめなり』という孟子の名句のとおりである。父が盗んだのは芋や豆だけであったのだろうか?盗んだだけであったのだろうか?そういえば、カミさんの義父が最前線の思い出を一切語らなかったのは、語るべき何ものもなかったからに違いないが、語ること自体が余りにも辛かったからであるかもしれない。
実は、小生も10代の頃の自分についてはカミさんにもあまり話したことがない。当時は、父が担当していた仕事に行き詰り、今でいう「鬱病」が酷くなった頃だが、小生もまた在籍していた高校の雰囲気がマッチせず、意欲を失った漂流感に心を苛まれる状態になってしまった。なので、10代後半、輝くような予感を人生で初めて感じることも可能な年代に、小生は何事も為しえなかった。その頃の無力感は思い出したくもないし、語りたくもない、そんな心理がずっとあったのだ。ところが、最近になると、20代の頃の自分、30代の頃の自分と、ずっと後の時代を振り返るのは平気なはずが、むしろ過ぎたばかりの時点においては「愉快だった思い出」、「誇らしい思い出」であったはずが、いまになってその頃を思い出すと「為すべき事を為しえなかった」というあからさまの事実が明瞭に認識され、とても「懐かしい思い出」などとは言えなくなってきている。無力であった自分、人を傷つけるばかりであった自分、自分を救うことに精一杯で人を助けるなどは全くできなかった自分が修飾なしのありのままの自分自身であった・・・。《知りたくなかった事実》は、いずれ自分に分かる時が来る・・・スケールは小さいが『オイディプス』のプロットは小生にも当てはまっていたわけだ。
そして、小生ほど些末なレベルではなく、もっと深刻な内容においてカミさんの義父も「思い出したくない自己自身」を自覚していたのではないかなあ・・・と、今では思ったりしているのだ。
しかし、思い切って開き直るのだが、思い出したくない過去を自覚している人間こそ、『酸いも甘いも嚙み分けている』人間達であって、そんな世代は何も始めてはいない人間達に示唆や助言を提供する方がよいし、社会全体が進んでいく方向にも関係する方がよい。
小生には、やはり、こう思われてしまう。
行動は若い世代の領分だ。しかし行動が思い出したくない過去で終わるのはつらい。「反省」と「後悔」を知っている人が傍にいるのは良いことだ。
成功するには、どうしても失敗を知っておくことが不可欠なのかもしれない。
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だから「いま」という時代を特徴づける「若さへの賛美」は、知らないことへの賛美、知ることが少なく、ただ目的に殉じるという純粋な行動を賛美する姿勢にも思われ、まさにこの感性こそが、戦争中に若い世代を躍らせた上層部の世代による「政治的奸計」にも相通じるものがある・・・。
そんな意味で、「若さへの賛美」といういま流行している態度は、真に責任を負うべき上層部の世代の「無責任」という実質と裏腹の関係にある。
そう思ったりしているのだが、ともかく旧世代、新世代、どちらであっても目を輝かせながら思い出を語れるというのが、幸福であった人生の一つの証であることは、どんな歴史を辿るにしても言えることであろう。
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