オミクロン株が従来の経験を吹き飛ばす程の感染力で急拡大をしており、WHOは既に春が訪れるまでには全欧州の半数の人が感染するだろうとの予測を出している。この予測は、「いまのままの政策を続けるとすれば」の条件を付けた上での(すべて予測には前提があるものだ)数値であるとは分かっているが、やはり日本人にはこの「半分は感染する」との予測がショッキングであった模様である。なるほど春までに日本人の半分、概ね5千万人ほどがオミクロンに感染する可能性は、いまの時代の日本人なら受け入れるはずがない。「絶対止めて!」というのが多数の支持する世論になるとしてもやむを得ないことだ。
「だから」というべきだろう、日本国内のTVワイドショーなどでは、これをWHOによる「予測」というよりも、「警戒を強めよ」という「警告」として受け止めた兆候がある。欧米ではオミクロン株の特性に応じた社会的戦略を採り始めているのに対して、ここ日本では昨夏のデルタ株流行と終息が成功体験になったのか、再び行動変容を促す従来戦略を採ろうという勢力と、欧米諸国の考え方を採用して従来戦略を練り直そうと考える勢力と、どうやら《路線闘争》が激化しつつある。
この路線闘争、決着がつく頃には「オミクロン株感染の波は通り過ぎました」ということで、意味もなく、生産的な総括をするまでもなく、ただ雲散霧消するのじゃあないかと予想しているのだが、いま現時点では丁々発止と激しくやっているようだ。
先日の投稿でも
海外、特に英米などアングロサクソン系の国では、この辺の基本目標が検査、治療、予防技術などの進化に応じて、政治的にも進化しているのかもしれないと思うようになった。前にも同じ主旨の投稿をしているのだが
最大多数の人々が最大数のコロナ抗体を保有する
こういう目標を前提としないなら、最近の英米両国の政府がとっている政策は理解困難である。ただ、冷静にみてみると、どちらが科学的に正当な目標であるかは自明だと思われる。
こんなことも書いているのだが、英米だけではなく、いわゆる「欧米先進国」がコロナウイルスに向き合う姿勢が、だんだんと《社会経済システムを維持する下で死者数を最小化する》という方向へ政策が収束しつつある。現時点はこんなところではないかと観ているのだ。
もちろん世界全体を見れば、海外でもその国、その国に応じて、コロナとどう向き合うかという方向付けに、違いが出てくるわけで、その戦略の違いは目標設定の違いが反映される、というのがロジックである。
中国の《ゼロコロナ戦略》と欧米の《社会システム維持という条件下の死者数最小化戦略》とは、明らかに観察するだけでも大きな違いがあるのだが、それは政策責任者が何を目標として設定しているかの違いによるものである、と。これだけは言えるわけだ。そして、この《目標設定》というのが、日本、というより「日本社会」は、最も苦手な課題であって、その苦手振りは戦後日本にとどまらず、戦前期の日本社会、いやもっと遡って明治元年の明治維新の時点からそもそも日本社会の目的は曖昧であった(と思う)。
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カミさんが贔屓にしている今朝のワイドショーでは、「常任」のコメンテーターT氏は(どうやら)従来戦略を採り、それに対してゲストに招待されたアカデミック・リサーチャーN氏は欧米先進国で主流となりつつある戦略を(基本的には)提案していた。つまり、具体的には小生も数日前に投稿した「治療の正常化」路線である。若年世代に属するレギュラー・コメンテーターA氏は(年齢が近いと言うこともあるのか)その従来戦略練り直し案に共感を示していたようだ。それに対して、常任コメンテーターは昨年来の主張に沿って、その提案はいまのオミクロン感染拡大中は実行不可であると主張していたのが印象的である。
つまり、要約すると、今朝招待されていたN氏も述べていたが、いま戦略Aと戦略Bがあり、主に恩恵をうける社会階層が二つの戦略の間で異なる場合、どちらの恩恵を重視するか、どちらの損失を重視するかは、その人の価値観による。これは経済学、法学にとどまらず社会全体を議論する時には最重要な前提で、従ってどの戦略がベストであるかは、マスコミは何かといえばそれをゲストに明言させようとするのであるが、その人の《価値判断》によらなければ結論が出せないわけだ。ちょうど治療方法が複数あっていずれにも一長一短がある場合、医師にできることはそれぞれの治療法のメリット、デメリットを説明してあげることだけである、結論としてどの治療法を選択するかは病と闘っている患者本人の感性、理念などによるしかない。この事と同質の問題なのである。どちらが善いかは価値観によるが、しかし、階層ごとに受ける恩恵と損失をデータを活用して実証的に計算して示すことが出来る。比較することができる。本日のゲストスピーカーN氏は、その比較をしたうえで、(個人的には)現行戦略を見直すことに大きなプラスの意義があると指摘をしたわけである。
選択対象になっている政策を議論するとき、何が善いかはそもそもその人の価値観によるのだというこの点をキチンと語るというのは、(研究上の常識とは言え)語っている人物の《誠意と謙虚》の証しであると小生は思っている。逆に、自らの価値観に触れることなく一つの政策的主張を述べ続けることの《不誠実》がTV画面を通して自然と醸し出されていた。どうもこのように(小生は)感じたのだが、視聴者全体としてはどうなのだろう?
ちなみにうちのカミさんは「怖いものは怖い」という価値観、というより感性をもっているので、できれば鎖国をしてほしいと話している。世間には、カミさんのような「普通の人」が多いのかもしれない。その普通の人の価値判断に基づいて採られる政策は、一定の階層に恩恵を、一定の階層には負担をしわ寄せするものである。今では誰もが知っているはずのこの事実を改めて指摘し、これまでとは特性の異なるオミクロン株が出てきたいま、これからもずっと従来と同じ価値観を採り続けていくのですか?そんな価値観が正当であるという価値判断は、今後もずっと変えないつもりですか?とすれば、何が重要で、何が劣ると判断しているのか、それを明らかにするのが誠意というものではないか?
結構、TVのワイドショーにしては、奥が深い問題が提起されたのではないか、と。そう思っている。
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そういえば、『バカの壁」の著書としても著名な養老孟司氏が日本経済新聞にこんな短文を寄せている。一部を引用してメモしておこう:
細部を科学的に見ようとすればその分、全体は膨張する。これを「部分を見れば全体はボケる」と表現する。それぞれ目線が違う専門家や官僚、政治家らが集まって議論するコロナ対策の、ちぐはぐさの一端がそこに見いだせる。
コロナ禍では日々発表される感染者数などの統計数字が「事実」として認識されている。こうした現代人の認識も「いわば神様目線である」と疑問を呈す。
かねて「死は二人称でしかない」と述べてきた。一人称の「私」が死んでも、死んだ時には「私」はいない。三人称は「誰かの死」であって、ヒトの感情は動かない。二人称の「知っている人の死」だけが確実にヒトに影響を与える。「数字は、本来は抽象的だ。僕の周りでコロナになった人はいなかった。数字は自分の目で確認した『事実』ではない」と話す。
URL: https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD033KG0T01C21A2000000/?unlock=1
Source:日本経済新聞、2022年1月18日 5:00
TV関係者は一人一人の視聴者の心に「寄り添う」(=忖度する、≠おもねる)ことが大事だ ― というか、番組制作側としてはそんな意識をもっているのだろう。寄り添ったうえで政策に関する意見を述べることが求められる。一方、公衆衛生や社会経済政策は、たとえ日本一国だけの観点に立つとしても、《神様目線》から決定することで合理性が保証される。
矛盾した観点にたつ人間が、同じレベル、同じ土俵に立って、一つの社会的課題について議論をしても、そもそも収束点に到達できると期待は出来ない。小生もこう思うようになった。これが最近よく指摘される《民主主義》の限界と言われればその通りかもしれない。しかし、例えば共産党が主導する中国のような《権威主義》であっても、やはり限界はあるのだ。どちらの失敗をより重視するか、これもまたその国の国民の価値観によるのである。
いわゆる《正解》はない。こんな「正解なき時代」においては、一定時間内に、時間を気にしながら、正しい解法に沿って計算を進め、(正解があると最初から分かりきっている問題であるので)求められている正解を回答する、その正解の数で合否を決める。このような筆記試験の意義自体が疑問に付されるとしても、むしろ望ましいことだろう。
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