2022年1月9日日曜日

断想: 民主主義には「熟議」が大事だというが・・・

いわゆる《言論》とは何だろう?

自分の意見をオープンな場で公表すれば、それが「言論」ということになるのだろうか?

そうは思っていない。

医者の診察でも"Second Opinion"を聴く機会は誰もが当然に持っているものと考えるのが常識だ。

研究結果を公表する論文投稿でも、レフェリーによる審査があり、匿名のレフェリーによる質問や問題指摘に返答、反論したり、再計算する作業が不可欠で、それを経て初めて採択、公表される。学会発表でもまったく同じで、話しっぱなしで済むはずがなく、聴衆の質問や批判にどう答えるか、その回答ぶりによって報告自体の信ぴょう性が決まるのである。そもそも古代ギリシアで生まれ、今なお古典として読み継がれている著作の一つにプラトンの哲学書がある。哲学の書籍としては、史上最初のまとまった著作だと小生は思っているが、ほとんど全て「対話形式」、いわば「戯曲形式」、「脚本形式」で書かれている。師であるソクラテスが、実際のところ、どんなことを考えているのかを、相手の批判や反論に応えるその答え方を通して、理解していくわけである。ソクラテスの弟子であるプラトンはそんな形式で意見を発表した。

そもそも国会の委員会審議は対話形式である。それが真の意味で「対話」になっているかどうかは別として、表面的に、形式的に、言いっぱなしではなく、明らかに「対話」という形をとっている。

《言論》は単なる「意見」や「提案」とは違うはずだ。批判・反批判の応酬を経た結果として決着まで持っていくことが要点だ。

言論による決定の反対概念は「腕力」、つまり「武断主義」である。

腕力ではなく、言葉の応酬で決着をつける。これが「言論重視」であって、民主主義には不可欠の基盤である。故に、武断主義は非民主主義的である。「言論」とはこう理解するべきだろうと今は思っている ― 議会の多数派が「数の力」で押し切る議会運営をどう理解するかという問題はある。社会における言論による結果が議席となって現れるとする見方もあるだろう。そうではなく、議会は「言論の府」であるべきだと考える伝統的立場もある。

ところが、マスメディア(新聞はもともと一方向的なメディアなのだが)ばかりではなく、最近は"Yahoo! Japan"、"Facebook"などネットの情報サイトでも同じようになってきているが、余りにも一方的発言、一方的投稿、一方的コメントが多いと、ごく最近になって感じるようになった。これらも「言論」の一部を構成するのだろうか?

パネル形式のニュース解説番組も同様だ。パネリストは振られるごとに色々と発言するのだが、他のパネリストと異なった意見を述べるでもなく、互いにディベートをするでもなく、コーディネーターと丁々発止対話をするわけでもない。何かどこかの縁台に腰かけて、勝手におしゃべりしている雰囲気の番組が多い。これでは、どんなことを言いたいのか分からないし、その時語られた言葉だけで表面的に聞いておくしか聴きようがないというものだ。非常に「お気楽」であって、力が抜けている。

メディアが放送しているから、これも「言論」ということになるのだろうか?

一言で言えば、現在のマスメディアの現場は

余りにも底が浅い。言いっぱなしで表面的である。左の耳から入って、すぐに右の耳から抜けていく。

* 

『熟議が大切だ』とよく言われるが、おそらくコロナ対策にしても税制にしても社会保険料引き上げにしても、「会社」や「役所」などの職場では、話題になることもあるのだろう。しかし、職場のやりとりは所詮は「仕事つながり」である。日本の社会の中で、どの程度まで「熟議」がなされているのか怪しいものだ。

親しい会員制の《クラブ》も近所の《パブ》もなく、友人同士の《ホーム・パーティ》も(一部の人々を除いて)ごく稀で、《たまり場》も《居場所》もない日本社会の大人たちが、どこでどう《熟議》を繰り広げればよいのか、甚だ疑問である。そういえば、最近のコロナ禍で「かかりつけ」という言葉を頻繁に聞くのだが、そもそも日本には「かかりつけ医」という制度はなく、患者のほうが「かかりつけ」と思っていても、相手の医者の方は「受け持ち患者」とは思っていない。そんな患者がいることさえ忘れている。そんなケースも多いようで、これまた「熟議」と同じく、「言葉だけ」で実体が伴っていない。

小生の亡くなった父が社会の現役であった時代を思い出すと、言葉は少なかったが、実体はしっかりとあった。言葉上手は軽薄な才子、力量のある人物は口よりも体を動かす。そんな価値観、人物観が定着していた。

いつから日本は言葉重視の国になったのだろう?

戦前期の日本社会のように、村には《寄合》があり、若衆には《青年宿》があり、女子衆には女子衆で《結?》や《家内工業》の助け合いがあった社会の方が、旧い身分制の名残がまだあったにせよ、はるかに多くの《熟議》の場があったことだろう。しかし、現代の日本人はいま日本は平等で民主主義的で、戦前期の日本は不平等で非民主主義だったと思いこんでいる。

こんな思い込みは余りにも表面的だろう。小生が祖父や祖母から聞いた戦前日本の世間はそれほど非民主主義的ではなかった。「兵役の義務」があったから非民主主義的であったというのは非論理的である。大正14年(1925年)に普通選挙が実施されるまで日本は非民主主義的だったという人も多いが、森鴎外や夏目漱石の小説を読んで非民主主義的な暗さを感じることはほとんどない。そもそも「民主主義的」かどうかという切り口と、「平等か」という切り口は、本質的に異なった問題なのである。そして、本稿のテーマは、民主主義には不可欠のはずの「熟議」のことである。熟議とは、どこで、誰が、どのように、というのがテーマだ。

いつから日本は熟議が大事だと言い始めたのだろう?

日本は民主主義陣営に属するとしきりに言われるが、民主主義の実体が現在の日本社会にどの程度まであるのだろう。一方的に上から(?)話される「言葉だけ」の事柄が余りにも多い。「言葉」と「実体」の間の乖離が以前よりも大きくなっている印象をもつ。日本の民主主義というのは言葉のうえだけではないのか。本当に「民主主義」をやっているのか?単に「専制君主」が日本にはいないというだけではないか?そう思う時がある。


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