2022年1月2日日曜日

断想: 人の名前が出て来なくなったとしても、それはプラスかもしれないという見方

かなり以前、役人時代の先輩TK氏が隣町で某社の社長をやっていた頃だが、小生のゼミに所属していた学生の就職で大変協力して頂いたことがある。小生よりは、やや年上であったが、

いやあ、最近、人の名前が出てこなくなってナア・・・

そうボヤいていたものである。その同じ経験をいま小生がしつつあるのだから、この世は回り舞台、すべてヒトというのは舞台の上手から登場し、時間が来れば下手の方に消えていくものかもしれない。まさに生きる人は例外なく誰もが「火宅の人」である。

もっと昔に役所の広報室で広報誌の編集長をやっていた頃、小生の上司が

俺の先輩でサ、極端にアバウトなヒトがいて、とにかく人の名前を正確に覚えないんだヨ。俺にあうと「オオ、青木じゃないか!」ってさ、「青木じゃなくてNKです」っていうと、「そうだそうだ、悪いワルイ、で元気だったか?」てな、いい人だったけど、あれはネエよな。ヒトの名前はまず最初に記憶にたたきこまないと、いい仕事はできネエよ。

と、中々、良いアドバイスをしていたものだ。この伝で言えば、人の名前が出てこなくなるというのは、齢のせいだと考えれば納得もできるのだが、いかにも能力の低下とも認められ、あまり気持ちのイイことではない。

ただ、人の名前が出てこなくなる一方で、認識能力が上がってきていると思われる側面もあるのだ、な。

若い時分には、何でも全て自分には理解できる。少なくとも勉強や研究をして追求すれば分かる。そんな心持であった。数理的な仕事をしていれば、解は必ず得られるものであるし、証明された結論は永遠の真理である。一度真理となった命題が覆えされることは決してない。そして人類が発見する真理は時の経過とともに必ず増えていく。そんな自信があった。

しかし、最近は《認識できないこと》を認識する、そんなことに気が付くことが多くなった。数日前にも投稿した「生命と非生命との曖昧な境界」はその一例だ。

小生は、拙宅が受け継いできた宗旨に沿って、この数年は他力本願の称名念仏を仏前で唱える習慣が身について来たのだが、口で唱える行為と心の中で唱える行為の両方を併せてやっている ― 口で発声して唱えるべきことが公式には推奨されているのだが、ここがプロではないところだ。そうすると、思うのだが、自分の外の世界に向かって唱えるときと、心の内に向かって唱えるときと、どんな本質的な違いがあるのだろうかと思う時がある。

やはり「外の世界」と「内の世界」とは違うのだろう。内の世界は、「認識された世界」である。外の世界は「認識が写像であるとすればその原像である世界の部分と認識されていない世界の部分との和集合」であって、外の世界として存在している物自体については人は知らないわけである。例えば、人が認識する世界は人が形成したイメージで、それは蟻や蜂がイメージしている世界像とは異なるのが当たり前だ。

認識しうる真理が無限にあるのだとすれば、人が既に知っている世界は全体の中の微々たる割合に過ぎず、人間が知っていることはほとんどない、と言っても間違いではないだろう。それは、蟻や蜂が集団の生存のために十分のことを知っていると自覚しているとしても、実はほとんど何も知らないのと、同じことである。

こういう「認識されていない世界が外にあることを認識する」という心持は、若い時分にはまったくなかったことである。《直観》といえば確かに直観だが、ロジカルな思考であるようにも思われ、確かに齢が重なるにつれ人の名前が出て来なくなることはあるのだが、別の側面に思考が及ぶという一面がある。

年齢によって頭脳の働き方は変化するものである

全体としてレベルが上がっているのか、下がっているのかは分からない。例えば、純粋数学的な仕事は若い時代に良い実績が集中するものだが、齢をとってから創造的な仕事ができる分野も多い。

思考という行動もまた、自然の変化にまかせたほうが良さそうである。これを<進歩>と言えるかといえば進歩ではなく、要するに<変化>なのだろうが、少なくとも<衰退>と受けとめる必要はない。

読経を声を発して行うときと、心の中で読むときと、確かにこの二つは本質的に異なった行為であると。いまはそう考えるようになった。やはり声を発して読むべきなのである。

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