最近のコロナ感染対策をめぐる議論をフォローしていると、1990年代から2000年代にかけて文字通りの「論争」が繰り広げられた問題、つまり「不良債権処理」のことを思い出してしまう。
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1990年代初頭に「バブル景気」は崩壊したのだが、想像もしなかった地価急落が焦げ付いた銀行の巨額融資の担保価値をも毀損し、日本国内の銀行部門全体の経営不安が大いに高まることになった、そういう問題である。
その解決をめぐり、当時、二つの陣営に分かれて路線闘争が展開された。一つは「ハード・ランディング路線」、もう一つは「ソフト・ランディング路線」である。ハードランディングとは、返済困難となった不良債権をバランスシートの借り方からブックオフ、つまり資産計上から削除する。と同時に、特別損失を計上し、貸方の資本が同額だけ毀損されたものとして会計処理する。資本が必要以上に毀損された金融機関については、公的資金を投入するか、健全な他の銀行に吸収合併させる。不良債権の融資先は、こうした処理によって追い貸しを停止されるので、当然ながら倒産(=民事再生法の適用申請)するわけだ。債務返済はその時点で止まるから、連鎖倒産も発生するであろう。しかし、倒産して市場から退出するべき企業、銀行を強制的に退出させることによって、ゾンビ企業を生き延びさせるための資金投入を停止し、成長分野に資金を回すことが出来る。これが「ハード・ランディング」の狙いである。それに対して、ソフト・ランディングとは、その当時「漸進主義(=グラデュアリズム)」とも呼ばれたが、基本的には強制的な不良債権処理は行わず、倒産企業も増やさず、毎年徐々に(=漸進的に)不良債権を償却しながら、マクロ経済的な成長の復活を待つという戦略であった。
1990年代に総理経験者としては戦後初めて大蔵大臣に就任した宮沢喜一蔵相だが、
ハードランディングなら誰でも出来る。政治家はあらゆる工夫をつくしながらソフトランディングを目指すべきだ。
こんな風に語ったことがまだ記憶に残っている。同蔵相はそもそもバブル崩壊直後の時点で公的資金投入の必要性を認識し、そのための政策的枠組みを整えようと努力したのだが、国費(≒国民の税金)を失敗した銀行救済のために投入することに、国民は大いに反発し、最も有効な時点で最も有効な政策を実行することができなかった。好機を逸した。まさに政治の職人・宮沢蔵相の忸怩たる思いが伝わってきたことを覚えている。
結果としては、1997年の山一証券倒産、拓銀破綻、翌年の日本長期信用銀行破綻と「金融パニック」の局面に突入し、日本の不良債権処理は — 望むところではなかった点が太平洋戦争開戦と似ているが ― ハードランディング路線を(覚悟の上ではあったはずだが)歩むことになった。
ハードランディングを敢えて採ることによって日本経済は奈落の底に沈んだ。その後、ダイエー、カネボウ、そごう、サンヨー等々、戦後日本を代表する企業が相次いで消え去っていったが、本当に消えなければならなかったのか、掘り下げた研究はまだまだ続けられるだろう。日本の「不良債権問題」の最終的解決には、小泉政権の下で「りそな銀行」の延命が容認されたことが、不安に満ちた当時の社会心理に明かりをさし、意識の転換をもたらしたことが一つのモメンタムになった。いわば「区切り感」である。そんな印象をもっている。
ロジックとしてはハード・ランディングが正しかったが、実際にはハード・ランディングによって問題は解決されなかった。
小生はこう認識している ― というより、そう記憶している。
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コロナ禍に入って2年が経過した。
確かに「新型コロナ・ウイルス」は日本社会の脅威である。しかし、「コロナ」は日本社会が直面している多くの問題の中の一つであることも事実だ。
一定の原理、前提からロジカルな解決策を、専門家と言うのは常に提案するものだが、専門家は提案に対して責任をもつことができない。おそらく責任をもつ意志もないのではないだろうか。
「参謀」は提案することが職務であり、「司令官」はその提案を採用するかどうかを判断し、結果に責任をもつ。
理論と実行と。この辺の職務分担は、感染対策でも外交でも経済政策、企業経営でもまったく同じはずだ。すべて組織運営にあたっては、トップがトップの考え方のみに基づいて、意思決定されるわけではない。「トップ」とは「責任」の所在のことである。
現時点で世界で感染の急拡大が続いているオミクロン株にどう向き合えばよいかで日本の方針はまだシッカリと定まっていない様子だ。無症状ないし軽症が多い印象があるが、高齢者が感染したときのデータがまだ少ないという指摘がある。それで日本政府は世界でも珍しいほどの厳格な入出国管理を継続中である。(こう言ってはなんだが)『羹に懲りてなますを吹く』のきらいがないでもない。他方、安倍元総理は、コロナを感染症法の5類に指定替えすることを提唱している。5類になればインフルエンザと同じ診療体制になる。反対に、分科会の尾身会長は『今回も緊急事態宣言は理論的にはありうる』と語ったよし。
さて、このオミクロンの《路線闘争》どうなるか・・・?
図らずもいま、中国でも路線闘争が展開中である。「コロナ」をどうするという(些末な?)問題ではない。1978年に鄧小平が始めて以来、一貫して採られてきた「改革開放路線」をどう評価するのか、という本質的な問題である。確かに経済的に豊かにはなったが、共産主義の観点からみれば「堕落と退廃の40年」とも言えるだろう。中国はコロナに関しては「ゼロ・コロナ」を基本戦略としている。その戦略を支える医療・検査基盤、法制度を有している。同じ「路線闘争」でも、日本と中国とはずいぶんスケールが違うようで・・・と感じるのは小生だけだろうか。
ロジックは、必ず一定の前提に立つ。その前提を説明することは、多くの場合、スキップされ、結論のみを主張する専門家が多いものだ。「コロナ対策のハード・ランディング(?)」である「緊急事態宣言」も同じだろう。『理に適っている』ことばかりを評価するのは禁物だ。それは不良債権処理のハード・ランディングが理には適っていたことと同様だろうと感じる。
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