2022年1月24日月曜日

一言メモ: 「言うだけ」の上と「頑張ろう」という下しかいない、と言うのも不正確か

最近、というより小生が社会人になった時分も同じだったような気がするが、多数の人が口にしたがる台詞がある。声に合わせてガッツポーズを決めることも多い。

頑張ろう!

頑張りましょう!

頑張ろや! 

頑張んべえ!

どこの方言でもよいのだが、この言葉。声掛け。一体何を中身としては伝える言葉なのだろうか?

言葉の意味がハッキリしないとき、外国語でいえば何と言うのか、こう問いかけるのが定石である。とすれば

日本人の「頑張ろう!」を英語でいうなら何と言う?

この問いかけに回答すればよい。まあ、まったく同じニュアンスにはならないと思うが。

ここで、例えばGoogleで翻訳させると

頑張ろう=Let us do our best!

こんな回答が返ってくる。『(さあ、)我々の最善を尽くそう(ではないか)!』。まあ、言い回しは固いが、こんなところかなあ、という気はする。しかし、明らかに言葉のニュアンスは違っている。「さあ、最善をつくそう」などと明からさまに言葉にすれば、「最善ってなにを指すんですか」と逆に詰め寄られて、言葉を失ってしまうのが落ちだろう。日本では、一部のブラック企業を除き、上品な大企業では、特に社会全体としては、日露戦争の日本海海戦や太平洋戦争の真珠湾奇襲の時などごく少数の異例のケースを除き「各員一層奮励努力せよ」などと上から下に「頑張れ」とは言わないものだ。

その代わりに

頑張ろう

と唱和する部下たちの自発的行動を期待するのである。これが日本の現場を特徴づける《円陣文化》である。上が何を言っても、というより何を考えているのか分からないという言うべきだろうが、下は上を受け入れて、身を挺して頑張る。すべてその国の「文明」を具体的に構成するルーティンには、発生・定着の背景、その狙いというものがあるものだ。日本人の「頑張ろう」もその一例であると思う。

小生思うに、国政選挙に出馬した候補者が選挙事務所で一同、こぶしをつきあげ、声を唱和して『頑張ろう』三唱をする情景は、外国でも見られるとはちょっと想像できない。

つまり日本の『頑張りましょう』という言葉かけ、声掛けは、非常に日本的な感性に基づく、日本的な習慣で、日本人の感性の深いところに響く言葉ではあるのだが、外国人がこの辺の感覚を日本人と共有できるかといえば、実のところ非常に心もとないわけだ。むしろ「頑張ろう」というなら、何に向けてどのように努力をすればよいか、その努力目標を統一的かつ客観的に設定し、とるべき行動を法律なり、条例なり、ルールにしてオープンに明示してほしい。そう考えるのが《国際標準》ではないだろうか?

いまもまた

オミクロンは軽症だとか、ステイホームはやる必要がないとか、色々意見の違いがありますが、私たち国民一人一人がこれまで以上に注意をすることが大事であることに変わりはありません。

頑張りましょう!

テレビ画面を通してワイドショーのMCがこんなことを言っている。

思い切って言うが、会社の社内でこんな感性の従業員が結構なリーダーシップを発揮している点にこそ、国内企業の非効率性を温存する主因があるとすら、小生は思っている。

日本は

現場は頑張るが、上はダメ

と、海外ではよく揶揄われているそうだが、因果関係の方向としては

現場は(上の指示とは関係なく)頑張る。故に、上は実質的な仕事を効率的に行わないのである

こちらが現実により当てはまっているかもしれない。上が独立変数で下が従属変数である。たとえ統一がとれていないにせよ、個々の現場は必ず頑張る。この意味では、日本社会は決して「ボトムアップ」ではなく、最も本質的な次元において「トップダウン」の社会である。上が内容空疎な形式、お飾りであっても、下は最大限の努力をして現場を守るのが職務である。上が空っぽであるので、ボトムアップに見えてしまうのだ。

こう考えると、解釈ができる事例が多いように思う。

もし真のボトムアップであるなら優秀な現場は現場を理解する優秀なトップを自ら選出するはずである。しかし、上は上、下は下である社会通念の下では、それは望ましくないと判定される。逆に、真のトップダウンであれば、文字通り「勇将の下に弱卒なし」、適材適所が実現する。日本のボトムアップは日本的なトップダウンを映し出している。

つまり、日本では上は下に何かを言う。頼むことすらする。そして下は下で頑張るのである。

もし「日本病」という判定が国内の現状を的確に形容しているのだとすれば、その原因は極めて日本的な特性にあるに違いないと考えるのがロジックだろう。

上で述べたように、日本社会の苦手科目である《目標設定》。「何をどう頑張ればよいのか」、「何をすればよいのか?」、「何が目標か?」、このような目標設定を曖昧なままにしているが故に、戦略、戦術、行動規範も曖昧なままに置かれる。対外的には最前線が頑張るが、実は上層部の内部では意見の対立を解決できていない。最善の戦略が何かという点で意見がまとまっていない。そんなサスペンディングな状態を《頑張りましょう》という下からの声掛けで風呂敷で包むように包摂して、一種の区切り感、結論感を関係者の間で醸し出している。ま、そんなところかなあ、と思いながら、いまも「頑張りましょう」を聴いていたわけだ。

これぞ《日本株式会社》の社風である。

であるから、「みんな、頑張ろう」というのは、目的とか、行動計画とか、固い内容の協力、分担というのがあるわけではないが、「これだけは最小限、やらないより、やる方がいいに決まっているでしょう」と、そんな合意がある行為については「ちゃんとやろう」、それが「頑張ろう」という声掛けの正確な内容ではないかと小生はいま振り返っているところだ。

つまり、「頑張ろう」と言いながら実際にやることは、主観的な最善を目指す相互確認であって、決して目的合理的な最善の行動計画ではない。というより、なにが最善の計画か、合意は得られていないのである。上に立つ人物の職務とは正にそんな全体合理的な集団行動へと下を導くことであるのだが、そうではない。上が上として行動はしない。上には期待できないという状況下において、下は自発的に何をするか。それが「頑張ろう」である。決して組織的な行動をしようとしているわけではない。そもそも組織行動をとるとき「頑張ろう」などとは互いに言わないであろう。

これが日本独特のトップダウンである。上のありようが先にあって、下のあり方と行動が決まっている。そう認識しているわけだ、最近の世相については。

・・・だとすると、システム障害を解決できないでいる「みずほフィナンシャル・グループ」の社風が

言うべき事を言わず、言われたことしかしない。

こんな「下に対する」批判を金融庁がしたりしている。つまり、みずほフィナンシャル・グループの現場は全く頑張らない傾向にあるというわけで、これは上にいった「頑張る現場」という日本的なイメージと矛盾している。昔は活発で優秀な現場であったのが、今ではダメになったということなのか・・・?

しかし、この問題も

上のあり方が、下のあり方を決める

上から下に向けた方向で因果関係が働いている。こんな見方をとると、見えて来るものはある。

「頑張る現場」すらも形成できず、「言われたことしかしない現場」に変容してしまった原因も、実は上のあり方に原因があった、と。とすれば、トップ・マネジメント自体が不在であったと言えそうである。

ダメな現場は優秀な上が指揮をしなければ全体がダメになるのに決まっている。いまの「みずほ」の現状は、

ダメな現場とダメな上

ということなのだろうか。金融当局はそういうことを言っているのか。

詳しい事は、現場にいない小生には分かりませぬ。



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