2022年4月16日土曜日

断想: SNSで「世論」が分かるものなのか?

現時点で、ジェフ・ベゾスを超える資産を保有する破壊的なアントレプレナーになりつつあるイーロン・マスク。今度はTwitter社経営に関心を高めているようだ。

人々が意見を自由に表明する共有の場をネットに設けたい

と、こんな理念を語っているようだが、同じことはずっと以前にFacebook社の創業者マーク・ザッカーバーグが話していた。

Facebookは本名によるアカウント開設が原則だ。投稿には責任(?)をもたされるシステムになっていることも与ったのか、2010年代初めの《アラブの春》では民主化運動のIT基盤になったということで、SNSビジネスの社会的意義がアメリカ国内で高く評価されたものである ― とはいえ、本名アカウントで反政府運動を展開するなど、よくそんな危険な事が出来たものだと、その時には思っていたのだが。

少し顧みると、Facebookが提供したソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)という新しい社会的ITツール。ポジティブな評価としてはこの「アラブの春」の頃がピークであったのではないか。その後、2016年のアメリカの大統領選挙では、トランプ候補を当選させたいと願うロシア勢力による米国内世論操作に利用されてしまった。果たして大方の予想を覆して(?)ト大統領当選が現実のものになってしばらくの時間が経過した後、ロシアによる選挙介入が問題として浮上した。アメリカ国民が憤激する様子が日本で報道されるのをみながら、思ったことは、「アラブの春」もそれ自体はネット上の運動であり、世論操作であったわけで、もしもそれが「良い事」ならば、同じことをアメリカ国内でやるとしても、「ヨイ事」であるはずだ。最小限考えても、それが「悪い事」だとは言えないだろう。アメリカ国内でFacebook批判が高まっていく様子を観ていて、小生、そう考えていたものである。

その頃、ザッカーバーグは『我々は人々に意見表明の場を提供しているだけだ』と話していたが、全くその通りだと小生も考えていたのだ、な。その見方は今でも基本的に大きく変わっていない。

しかしながら、その後の現実の進展はというと、『アラブでやって善いからと言って、それをアメリカでやって善いわけではない』のだと、こういう世論が支配的になった。それはちょうど、「有志連合軍」が主権国家イラクを軍事的に打倒しても「善い行為」になるが、ロシアがウクライナを軍事侵攻すれば、それは「戦争犯罪」である、と。歴史的位相は異なるが、記憶を振り返ると、まるで最近と相似形のような論理構造がその当時も観察できたわけである。他にも同様の事例はあると思う。

これに加えて、

Facebookはコンサルティング企業Cambridge Analyticaによるユーザーデータの不正取得について、メディアで報じられる何カ月も前から認識していた・・・

こんなデータ流出問題も暴露されるに至り、Facebook社の企業イメージは非常な打撃を受けてしまった。

ごく最近年とは違って1990年代を通して一貫していた米政府の"Anti-Microsoft"姿勢は、まるで今日の"Anti-Facebook"にそのままつながっているようで、どこかで相通じている本当の理由があるのではないかと感じているのだが、それもあってかFacebook社はSNSからMetaverseへ事業の重点をシフトさせようとする真っ最中にある。

Facebookが後退してTwitterが進出すると言うのは、SNS市場で当然予想される経営戦略的な展開で、まさに《戦略的代替性》が当てはまっている証拠である。昨年のアフガン撤退がアメリカの「撤退戦略」であったように、Facebookが重点事業をシフトさせているのも「撤退戦略」になっている。そう思いながら、今後のTwitter社の行方には関心を持っている。

しかしナア・・・イーロン・マスクが狙っているように、仮にTwitterが"Default SNS"のポジションを占めるとしても、そうなればそうなればで、やはり今度はTwitterが様々な勢力のプロパガンダに利用される理屈だ。既に、Facebookは「不適切な投稿」をFacebookの(AIに基づく)裁量でスクリーニングする体制をとっている。Twitterも同様の方針にあるようだが、それでも全ての人々に共通の言語空間を提供したいなら、投稿規制を可能限り緩めて、投稿を自由化し、《表現の自由》を保障しなければ、全ての人にとっての《価値》にはならない。

しかし、この道はFacebookが歩んできた道に他ならない。仮にイーロン・マスクがTwitterを経営するにしても、SNSの理念型が実現できると、小生には思われない。透明なガラスを透過するようにSNSという場に、ありとあらゆる人々の意見がそのまま視覚化される状態には、人々はメンタル的に耐えられない。見たくもなく、知りたくもない、そう思う。Facebookが直面したように、日本を含めて世界の人々は、理念通りのSNSには耐えられない。人々が何を考えているか、善かれと思ってSNSという場を(理念に沿って)構築したのだろうが、多くの人々はそんな場を、結局、歓迎していない。銃や刀剣といった武器が厳重に管理されて初めて有用な道具になるように、SNSという場はスクリーニングされ、フィルタリングされ、厳重にマネージされない限り、社会にとって役立つモノにはなりえない。こんな現実が既に確認されているのだと思う。

その意味では、TVや新聞など経営陣とプロデューサー、デスクが裁量的に「何を伝えるべきか」をスクリーニングしているメディア企業の方が、人々のホンネのありかを正確に洞察していると言えるのだ、な。

もしも仮に、人々が何を話しているか、自分のいないところで知人、友人達が自分について何を話しているか、Global Positioning System(GPS)データを指定して範囲選択し、関心のある人物のアカウントをフィルタリングすることで、話されている音声データを自由自在に聴く(=盗聴)ことが可能なデバイスが発明されたとする。そして、そんなデバイスが数万円程度で購入できるようになったとする。そうなれば、全ての人の意見を誰もが知ることができるわけだ。政治家にとっては「夢の超特急」ならぬ、「夢の世論調査器」になるはずだ。

しかし、人々はそんな世界には耐えられないだろう。精神的に耐えられないと小生は思う。

自分が他人と話す全ての会話が全ての人に聴かれている。そして、そのことを自分も他人も全ての人が分かっている・・・。そんな世界でも人は嘘をつくことができる。考えていることまでは他人に分からない。だから、いま話すことは全ての人に聴かれていることを前提に、最も自分に有利なように話す内容を決める。そんな世界になる。

言語空間はあるが、もはや真の意味で《コミュニケーション》が出来ない世界になる。

しかし、そんな世界でも人々は心の中で色々な願望をもつ。ホンネを伝えたい。そのホンネは他人には知られたくない。だから、理想のデバイスが発明されたあとでも、その理想のデバイスは役には立たない。ただ人を苛立たせるだけの機械になるはずだ。

ヒトは自分の考えを秘匿したいものである。

だから人々の意見、それが集計された《世論》を鏡のように映し出すデバイスは、《永久機関》と同様、人間には製造不可能である(と思う)。同じように、世論を映し出すSNSという場をネットに構築するのも不可能だ。というより、世間はそこまで求めてはいないし、希望してもいないのだ(と思う)。

《世論》をありのままの姿で目にしたり、ありとあらゆる《世論》を耳にすることは、ほとんどの人にとっては感情的に耐えられないことである(に違いない)。それが人間社会の現実である。綺麗ごとではすまない。理性によってスクリーニングしなければならない。世論は教育され、啓蒙されなければ、決して有用ではなく、むしろ有害になる。それが次第に分かってきたのが、SNSビジネス10年余の歴史そのものだと思うのだ、な。

問題は、そんなSNSマネジメントを誰が、どんな価値観に基づいて、どんな方法で行うか、になるだろう。価値観と言う大前提に立つ以上、やはりSNSに表れる「世論」なるものも、「懐疑」の対象になるのが当然である。

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