2022年4月25日月曜日

断想: 戦争で死ぬのは愚かだと考えるのが合理的なのか?

ウクライナ戦争でロシアが核兵器使用の「脅し」をかけている。これに関連して、《核兵器使用》をどう考えればよいのか、戦略的にどんな枠組みで考えればよいのか。トーマス・シェリング『紛争の戦略』の巻末補論に「核兵器と限定戦争」があるので、先ずは本が書かれた1960年の時点で、どんな風に考察されていたのか。その辺りを整理して覚書にしておくかと考えていたのだが、それは次回に回すことにして、本日投稿ではTVのワイドショーでも話されているような『人の命を何としても救わなければなりません」という、いわば素朴なヒューマニズムに立つ意見と、それとは真逆の意見と、本ブログではこの二つともこれまでに投稿しているので、引用、繰り返しにはなるが、改めて要点を書いておくことにした。

一つは、敵国の侵略に対する極めて理性的な、かつ人命尊重に立脚した対応であって、その代表はやはり森嶋通夫氏の見解だと思う。「森嶋通夫」でブログ内検索をかければ、たとえばこの投稿が出てくる。

「戦争放棄」を憲法で定めていても、現実に自衛のための戦力を保有している以上、どこか他国が日本本土を攻撃すれば自動的に「戦争状態」になる。日本は憲法上それを「戦争」であるとは宣言できないだろうが、誰が考えてもそれは欺瞞である。

戦争を放棄する意志を本当にもつなら、かつて経済学者・森嶋通夫氏が展開したロジックに従って、武力攻撃された場合は直ちに「降伏」するのが筋が通り、嘘のない誠実な態度である。直ちに降伏するつもりなら自衛隊という戦力を保持する必要はない。武力攻撃に抵抗する姿勢をとっていること自体が「戦争能力」をもつことを認めている証拠だ。戦争能力を現実にもっていること自体が心の奥底では戦争放棄を本当は決意していない証拠である。

(自分が書いたのだが)この下りを改めて読むと、論理に間違いはないと思う。まさにこの通りだと思う。

この考え方からロシア侵攻を考えれば、ロシアが首都キエフに向かって進撃した時点で、ウクライナ軍は敵とは交戦せず、ひたすらウクライナ国内の住民の生命の保護に専念すべきであって、ロシア軍の車列を停めることはせず、ましてミサイルで攻撃するなどはせず、敵軍が首都に入ることを容認し、その後はロシアの要求に従って平和裏にゼレンスキー大統領以下、現ウクライナ政権は辞任する、と。そんな対応が最適であるという理屈になる。こうすれば、たとえ何名かのウクライナ住民が偶発的に犠牲になることはあっても、住居やインフラ、生活は概ね(丸ごと)保護されることになったはずで、町全体が破壊されるなどの悲劇も予防でき、それらソーシャル・インフラはロシア側に接収され、反ロシア勢力が追放されるか、連行されるか、そんな屈辱を被るとしても、少なくとも国民の命は(基本的に)守られる展開になったと、小生は思う。

だから、一部の専門家が(今でも)主張しているように、ゼレンスキー大統領は早く降伏するべきであるというのは、「戦争とどう向き合うか」という問題に対する、一つの回答だと感じるわけで、決して間違っている思考ではないと思う。

これに対立する立場として一つの極端な意見は、やはり三島由紀夫氏の見解で、特に氏が愛した名著『葉隠』の思想が本質的ではないかと思う。<葉隠>でブログ内検索をかけてもよいし、<三島由紀夫>でかけてもいい。たとえばこんな投稿が出てくる。

現代の世界においても、頻繁に戦争や内戦を繰り返している国は多数ある。先進国は自動小銃や砲撃から無縁であり、そんな戦闘が展開されているのは未開発国であると思ってはならない。そもそもアメリカは日常的に戦争を繰り返している国であるし、イギリス、フランス、ドイツ、韓国など必要な時に戦闘に参加している先進国は多数にのぼるのが現実である。日本も人的支援を行なっている ― ただし「国権の発動たる戦争」だけは禁止されている。

現代インテリゲンチャの原型をなすような儒者、学者、あるいは武士の中にも、太平の世とともにそれに類するタイプが発生していた。それを常朝はじつに簡単に「勘定者」と呼んでいる。合理主義とヒューマニズムが何を隠蔽し、何を欺くかということを「葉隠」は一言をもってあばき立て、合理的に考えれば死は損であり、生は得であるから、誰も喜んで死へおもむくものはいない。合理主義的な観念の上に打ち立てられたヒューマニズムは、それが一つの思想の鎧となることによって、あたかも普遍性を獲得したような錯覚におちいり、その内面の主体の弱みと主観の脆弱さを隠してしまう。常朝がたえず非難しているのは、主体と思想との間の乖離である。これは「葉隠」を一貫する考え方で、もし思想が勘定の上に成り立ち、死は損であり、生は得であると勘定することによって、たんなる才知弁舌によって、自分の内心の臆病と欲望を押しかくすなら、それは自分のつくった思想をもって自らを欺き、またみずから欺かれる人間のあさましい姿を露呈することにほかならない。(新潮文庫版、63頁)

人によっては過激な思想であると言うかもしれないが、小生はこの下りを今日読んでも、同感を禁じ得ない。戦後日本は素晴らしい理念に基づいて開かれたが、堕落をするとすれば三島由紀夫が非難するような形で堕落するのだろうなあと、やっぱり納得してしまうのだな。


「堕落する」というのは、例えば「民主主義と基本的人権」に最高の価値を認めると日常的には言いつつ、いざ他国から侵略されてその価値が踏みにじられる危機に際したとき、その価値を必死に守ろうとはせず、戦わずして侵略者に屈し、大事にするはずの「民主主義と基本的人権」を捨て去って、命だけは守ろうとする姿勢であって、これは文字通り自らが「言行不一致」の臆病者であることを証明するに違いないのだ。というか、そもそも「命」以外の価値を主張すること自体が、人命尊重のヒューマニズムとは矛盾するという理屈になろう。

『葉隠』の(そして三島由紀夫の)思想は、徹底した《反・合理主義》である。森嶋氏の議論が徹底して合理的であるのに対して、三島氏の思想は非常に反合理的である。やはり経済学者・森嶋と文学作家・三島の違いがここには見られる。経済学というのは、ともかく人間と言うのは徹底的に合理的行動をとりたがるものなのだ、それが善いのだ、こんな大前提から学問全体が成り立っている。


それでもなお、反合理的であるはずの『葉隠』や三島の思想に、かなり多数の日本人は(というか、国籍を問わず)どこかで共感しそうな予想を小生はしている。もしそうなら、単に反合理的であるだけではなく、どこか(ある意味で)

そう行動する方が、長い目でみれば、その国民全体にとって理に適った行動様式なのだ

と、その人たちが考えているのだろう(と思う)。「理に適う」とは、未来を含めた国民全体の利益につながるという意味であって、その利益にはカネで測る所得や富だけではなく、その国民に寄せられる敬意や名誉、信頼、そして歴史、伝説といった文化的無形資産もまた含まれるのである。同じ勘定でも足元の利益を勘定しているのではなく、はるか将来に目を向ければ、その時は反合理的に見えるにしても、実は全く意味のない空しい行動をとっているわけではない。こう思われるのだ、な。但し、この場合の「合理性」とは国民が共有する《集団合理性》であって、個々人の《私的合理性》ではない。

しかし、命を惜しむはずの個々人の立場に立つミクロの視点で考えるとしても

そう行動する方が、美の感覚に合致する。つまり、醜く生きるより、美しく死ぬ方が、自分としては本望だ、と。これもまた強い動機である場合がある。

哲学者カントも言うように、「崇高」は「感情」から、具体的には「美の感情」から生まれるものである。カネや快楽を求めず、崇高な自己自身を求める想いは、行動の動機として十分であるかもしれないではないか。

強い《同調の圧力》の下に置かれるとしても、必ずしもそれが悪いと言えるわけではなく、一人だけ自由な行動をとることの満足度が極めて高いとは限らない。

人間は完全に合理的な生物ではない。そもそも《合理性》は、人が口先で語る言葉に与えられる性質ではない。どんな人物も自分の言葉は理に適っていると考えている。「合理性」とは、現象の理解の仕方と問題解決への着目や行動との関係性に特に現れることが多い。たとえ理解の仕方が前近代的であるとしても、その範囲内で合理的であった人物は多い。古代ギリシア人は非合理的だったと考えるヨーロッパ人はまずいないだろう。

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