2022年4月13日水曜日

一言メモ: 権力の暴走 ≒ 世論の暴走

暴走は、伝染もするし、波及もする。一人が暴走すると、他の多くの者が刺激されて、模倣するのである。


今春の東大の入学式。「きかせる」祝辞があったようだ。

東京大学の入学式が日本武道館で開かれ、3000人の新入生が出席しました。来賓の映画監督の河瀬直美氏が祝辞で「ロシアという国を悪者にすることは簡単である」と述べました。

意見の主旨はというと

 <<「ロシアを悪者にすることは簡単」としたうえで「なぜこのようなことが起こっているか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないか。誤解を恐れずに言うと『悪』を存在させることで私は安心していないか」>>

というようなものだ。

これに対して、大方の世論の反応は

侵略した国と侵略された国を同格に論じる祝辞は、東大の見識も問われます。

大体、こういう主旨のものが多い。

まさに文字通り

どっちもどっち

であると、小生は思っている。


最近数年間の日本の《世論》、具体的には「ネット世論」、「ワイドショー世論」を指しているのだが、直進→暴論化→逆転→直進→暴論化→逆転→直進→・・・

まあ、こんな風な制御工学でいうところの《Bang-Bang制御》を連想させるものがある。つまり、社会状態は連続した多様な進路があるのではなく、<左翼化>と<右翼化>のたった二つの状態のみがあって、どこかで耐えられないほど過激になった段階で、何かの修正メカニズムが働いて、今度は逆向きの方向へと進む。俗にいう《振り子現象》である、な。アカデミックな用語を使うと《レジーム・スイッチング・モデル》に相当する — ただし、どのレジームにおいても社会は不安定であり発散する。そんな「世論変動プロセス」を、最近、有力な見方として改めて見直しているのだ。これが日本の社会(だけではないのかもしれないが)に、特にネットの普及で世論が「視える化」されるようになった後は、割と当てはまっている統計モデルではないか、と。

ホント、何がダイバーシティ(diversity)じゃ! 理想ばかり言って、やってることは、マルデ反対じゃないか!!

こんな感想です。


まあ、最近でも色々ありました・・・東京オリパラ延期問題、セクハラ、パワハラ、ジェンダーフリー、森さんや五輪関係者の辞任、それからコロナ感染。菅さんの辞任。安倍さんの花見問題、モリカケ問題。日産のゴーンさんも稀代の悪人にされチャイました・・・とにかくこの現代日本社会で世論の過激化は無数に繰り返されている。過激化が純粋化と重なるケースもある。純粋化はよく言えばそうなるわけで、幼稚化に見えることもある ― 子供と言うのは、いつの時代でも「純」だから、永遠の子供に憧れるヒトも増えているかもしれない。

この辺の事情、戦前期・日本で大いに盛り上がった<天皇機関説事件>も、その本質は同じである。<国体明徴運動>も同じ穴のムジナ。その20年ほど昔には<大正政変>があって民衆の決起が内閣を倒すということもあった。世論にも「狂熱」や「暴走」があるのは、独裁君主に「信念」があったり「理想」があったりするのと、まったく同じ社会的作用を及ぼす。

達観してみると、(少なくとも)日本社会では大正デモクラシーを経験し、普通選挙が実施されたあと、社会のガバナビリティが段々と低下し、その果てに国民は陸軍の強い権力を受け入れ、国家総動員体制へと社会は変化していった。そう観えるのだ、な。

西洋史をみても、「国民国家」が生まれてから、むしろ戦争やジェノサイドが過激化、大規模化した。その国民国家が絶対君主国から民主主義国になったからと言って、国家の品格が向上し、優雅になったなどとは、まったく言えない。封建領主が高額の報酬で傭兵を雇いつつ戦争をしていた時代は、戦(いくさ)は頻発するが、どれも短期、小規模で、だから封建制が長期安定したと、こんな風に小生は理解している。日本の歴史もこれに似たところがある。


民主主義であれ、非・民主主義であれ、権力闘争は必ず存在する。民主主義社会では「言論」の中に、つまり「世論」の中に権力闘争がある。権力闘争がたけなわになると、世論は過激化するのである。そんな社会が自分の好みに合うかどうかは、人それぞれだろう。もしタイムスリップで江戸時代の日本人が現代日本に紛れ込んだとして、その人が民主化された現代日本の世相をみて、「ああ、いい国になったネエ」と言って、この社会にとどまりたいと願うかどうか、それは分からない。例えば、明治から大正、昭和にかけての文人・永井荷風などは、日記『断腸亭日乗』を丁寧に読むと、世間なるものの騒がしく、五月蠅い世相に、ほとほと閉口していたように推測される。

今日書いたことは、2、3日前の投稿とほぼ同じ主旨だ。



 

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