2022年4月9日土曜日

断想: 「価値」は戦争の原因となり、平和は「懐疑」によって実現するものだ

いま(特にTVがそうだが)マスメディアが強調している《民主主義 vs 権威主義》という価値観対立。この対立が今回のウクライナ動乱にまでつながっている。こんな認識で、マスコミは様々、解説や展望を語っているのだが、ホントに同調してついて行っていいのだろうか?大体、昔の冷戦は「資本主義 vs 共産主義」だった。それがソ連崩壊をきっかけに「民主主義 vs 権威主義」という表現に変わってきた。「民主主義」というのは「自由主義」のことかと言えば、それはまた違うようで、《共有された価値観》に基づかない自由は規制されて当然だという政治哲学も、どうもあるようだ。

小生にはよく分からない・・・が、この「価値観を共有しているかどうか」が決定的な識別要因であるようだ。

であるとすれば、昔の《宗教対立》とどう違うのか?信仰する神が違うというのは、ある意味、究極的な価値観の対立だろう。

いま世界で表面化しているのは、価値観と口では言っているが、本質は宗教対立ではないのだろうか。違いますか?

宗教対立ではCという宗派とPという宗派への分断があって、その分裂が最後には戦争へと至る。それが宗教戦争だという理屈になるが、必ずしも実際の宗教戦争はそうではない。

ドイツ30年戦争」といえば世界史の入試センター試験でも出題の可能性が高い重点事項であった。その割には、担当教師はあまり分かりやすくは説明せず、あとは教科書をよく読めという体だった。ただ戦争終結をもたらした《ウェストファリア条約》は非常に著名で、現代に至る《国際法》も精神としてはこのウェストファリア体制に沿うものである。なので、現代的意味からしても「ドイツ30年戦争」は大きな意義をもつ大戦であったのだ。

ところが、その発端は実に詰まらない事件であったに過ぎない。要するに、ボヘミアの田舎君主がローマ教会と和解しようとしたが、王の行為に新教徒が多い庶民は激しく怒り、王が召集した市の参事会委員を窓から投げ落とすという暴行を演じた。それに激怒したハプスブルグ家の皇帝がこれを「反乱」とみなし軍事力を行使しようとした。新教徒が優勢な北欧諸国はこれを独裁的な抑圧であると非難しボヘミア市民を軍事支援することを決定した。神聖ローマ皇帝(=ハプスブルグ家)は同じカトリック国であるフランスに応援を期待したのであるが、何とフランスは新教国応援に舵をきった。それでヨーロッパ全土、特にドイツ国内(=神聖ローマ帝国領内)を舞台に、すべての封建領主を巻き込んで最後の宗教戦争が繰り広げられたのだった。その当時のドイツの人口の20%が戦争の犠牲になったと推測されている。

文脈はまるで違うが、日本の室町時代に起こった「応仁の乱」もつまらない諍いから生じた大乱であった。軍事支援の応酬から最後は大戦争になるわけである。

注意を要するのは、宗教戦争の様相ではあったが、実際には旧勢力のハプスブルグ王朝と新興のブルボン王朝との覇権闘争であったわけで、ドイツは宗教対立をネタに戦争の舞台とされてしまった。これが「30年戦争」の実相である。

ウェストファリア体制とは、戦争の目的であったはずの宗教対立を水に流して、各封建領主は自由に自ら信じる宗教を選択してもよい、こうしたリアリズムによる国際平和の実現が勘所である。いわゆる《内政不干渉》が国際原則として確立したのはウェストファリア体制においてであって、広域的かつ超越的な価値を体現する教皇、皇帝の権力は衰退の一途をたどった。

今に至るも、決して国際的意義を失っていない思想である。

実はこれに関連して、ごく最近になって、腑に落ちる感覚を覚えたのがデカルトの哲学である。

デカルトと言えば、

我思う、故に我あり

という後の啓蒙思想の予兆となる名句で余りにも有名だが、その根底にあるのは懐疑主義と合理主義である。主著『方法序説』を(一通り)読んだのは高校生の頃だった。多分、推薦図書になっていたのだろう。後半はあまり記憶していないのは、真ん中あたりで息切れしたのかもしれない。ただ、

全てを疑え、他人の意見を疑え、常識を疑え

という方法論から

信仰を疑う。神を疑う。あらゆる理念を疑う。しかし、疑っている自分だけは確かに存在している。これだけは確実で疑いの余地がない。

即ち、『我思う、故に我あり(Cogito,  Ergo Sum)』という認識の出発点が得られるという語り口には感心した。これを原点として、あとは最も確実な数学的論理のみに基づいて思考を演繹的に発展させるのが合理主義哲学である。まさにデカルトが経験した戦争の原因でもあった信仰の否定、宗教の否定にもつながる知的転回であるのだが、この辺りの文章の流れは実に歯切れがよく、まるでエラリー・クイーンのミステリーだと思ったことをよく覚えている。

デカルトが生きた当時も、ヒトが話す内容はホントが半分、ウソ半分で、信用できないこと位は分かっていた。しかし『聖書』だけは真理であると皆思っていた。そんな信仰の時代にあって、真理は聖書に書かれているわけではなく、人間の理性を用いて論理的に証明することによって得られると言ったデカルトは過激派もイイところだ。


最初に読んだときはそれだけで読み終わってしまったのだが、実はデカルトは上の「ドイツ30年戦争」に軍人として出征している。この辺のことは例えばWikipediaでも紹介されている:

1619年4月、三十年戦争が起こったことを聞いたデカルトは、この戦いに参加するためにドイツへと旅立つ。これは、休戦状態の続くマウリッツの軍隊での生活に退屈していたことも原因であった。フランクフルトでの皇帝フェルディナント2世の戴冠式に列席し、バイエルン公マクシミリアン1世の軍隊に入る。

1619年10月からノイブルクで炉部屋にこもり、精神力のすべてをかけて自分自身の生きる道を見つけようとする。そして11月10日の昼間に、「驚くべき学問の基礎」を発見し、夜に3つの神秘的な夢をみる。

人は、互いに人を殺しあいながら、

この戦いって、何なのだろう?

と、デカルトもそうであったが最前線の人間なら誰もが考えるはずだ。 戦争を始めるに至った思想はどこかおかしい。それが正義だと考える信仰もどこかおかしい、と。それはむしろ自然な結論ではないか。

両方が間違った価値観をもって、バカなことをやっているのだ

戦争の現実を目の当たりにしてそう考える人間が最も正しい。

ヨーロッパの近代への歩みが30年戦争から始まったというのは決して誇張ではない、というわけだ。ただその「近代」というのは、宗教が国家に置き換わっただけで、人間はどこまでも対立するものだという本質は同じである所が悲惨で、この事情は現代に至るもまだ変わっていない。

国家の価値もまた懐疑の対象にしなければなるまい。

0 件のコメント: