2023年3月24日金曜日

ホンノ一言: 他者評価のランキング・ビジネスもいよいよ自壊する兆し?

前稿では「自己本位」とは正反対の「他者本位」の価値観は、内容空っぽで意味がないと考えるのが小生の立場だと述べた。考えているというより、もうこれは経験を通して得た結論だと言ってもよいのだ、な。

他者本位の価値観から生まれてきたビジネスの代表例がマスコミが好んで発表しているいわゆる「〇〇評価」や「▲▲ランキング」、「□□順位」である。

ところが、この評価ビジネスもどうやら崩壊の兆しを見せてきたようだ。

残念ながら、日本ではない。何ごとも日本に先行するアメリカ発の変化である。

Wall Street Journalに《大学評価ランキング》の実質崩塊状況がとり上げられている。

多くの大学経営者と同様に、ガーケン氏は長年にわたり、米誌USニューズ・アンド・ワールド・リポートにロースクール(法科大学院)のランキングを見直すよう求めてきた。同氏が問題視したのは、イエール大学ロースクールに対する評価ではなかった(同ロースクールは30年以上連続で首位を守ってきた)。彼女は、同誌のランキングが各大学とそれぞれの優先事項に与える、もっと広範な影響を懸念していた。

 ガーケン氏は同日の書簡の中で、「USニューズのランキングには重大な欠陥がある」と指摘した。そしてイエール大学ロースクールは同誌のランキングに協力することを拒絶した。

 それから3カ月以内に、40校を超えるロースクールがUSニューズとの協力関係を終了し、同誌へのデータ提供をやめる意向を表明した。撤退数は同誌がランク付けするロースクールの約20%に当たり、ランキング上位14校のうち12校を含む。追随する動きはメディカルスクールの間でも相次ぎ、その中には、ランキング1位のハーバード大学メディカルスクールも含まれていた。学部レベルでは、ロードアイランド・スクール・オブ・デザイン(北部の地方大学部門で3位)とコロラド・カレッジ(全米リベラルアーツカレッジ部門の最新ランキングで27位)が先月撤退した。

 USニューズ誌の大学ランキングは、進学を目指す若者たちの間で何世代にもわたり、最も知名度の高い情報源となってきた。一連の撤退で同誌のランキング事業は大混乱に陥っているが、その端緒は何十年も前にさかのぼる。大学の学長・学部長・研究機関の研究者らは、USニューズ社のデータ戦略担当責任者に対して、書簡や電話、会議、ワシントン本社での面会などを通じて定期的に懸念を表明してきたことを明らかにした。彼らは、同誌のランキングが不透明なもので、最も裕福な学校を優遇し、生徒に恩恵をもたらさない慣行を促進してきたと主張。その上で、教育のような複雑なことを一般的なランク付けに単純化しないよう警告した。

Source: WSJ,  2023 年 3 月 22 日 14:41 JST

Author: Melissa Korn

URL: https://jp.wsj.com/articles/the-unraveling-of-the-u-s-news-college-rankings-8a3a1cbd?mod=trending_now_news_4

「評価ランキング崩塊」の根本原因は、複雑な実態を消費者(≒ 大衆)に分かりやすく単純化して伝えるという、その《単純化》という方法論に隠れている本質的な欠陥である。

計量経済学でも、マクロデータ分析とミクロデータ分析がある。往年のマクロ計量モデルビルダーとして仕事をした人であれば、一本の行動方程式を推定した時の決定係数が0.95というのは極く当たり前に求められていた数字であり、例えば投資関数でそれが0.75などという値に留まっていれば、「投資関数、弱いんだよね」と話していたに違いない。こんな日常感覚であったはずだ。ところが、個人々々の行動を記録したミクロデータになると、サンプル数が何千あるいは何万のオーダーに増え、モデルによる説明力もせいぜいが0.40とか、低ければ0.25程度にとどまることが普通にある。それでも大標本であるため推定されたパラメーターがしばしば有意となる。パラメーター推定値が理論的要請をみたし、かつ有意であれば分析としては大成功なのである。モデルでは説明されていないノイズが半分以上の割合を占めるとしても、『それだけ個人差が大きいということだよネ』と。ミクロ分析にはそんな感覚がある。

ミクロデータ分析では、個人間の違いをカバーするためモデルに取り込む説明変数が多数に上るのが自然だ。それでも個人間の差異の多くは捕捉しきれずに残る。モデルでは説明できない個人差として残される割合が非常に多い。


この辺の事情は、理論を検証する確証的統計分析でも、データから面白い事実を引き出すための探索的データ分析でも類似している。

つまり、ミクロ分析では、「分析結果」として語られる以外の、分析者の視野から漏れ落ちる部分が、全体の半分以上を占めることが多いのである。

今回の《評価ビジネス崩塊》をもたらした背景としては、個々の大学が果たしている《教育活動》は、非常に多数の、それでいて一人一人の学生の人生を相手にしている以上、その成果の現れ方は極めて複雑であるという点がある。

その複雑な教育現場の実態を、統計的に数値化し、大学間の違いを数字の違いに還元して《視える化》してきた。最近流行のKPI(重要業績評価指標)が教育現場にも活用できるかのような流れが形成された。視える化するという統計的技法は、それ自体は便利なものなのである。問題は、分析結果として数値化されたその数字が、本当に教育現場の実態をどの程度正しく伝えているかである。やっていることは個々の大学のミクロ分析なのだ。視覚化された結果が、大学間の違いをほぼ完全に包括しているのだ、と。もしこんな風に受け取るなら、それは間違いですよ、と。見落としている違いが実は半分以上残っているンです、と。これを言っておかなければいけなかったわけだ。

大体、50メートル走のタイムと背筋力、英語・数学の定期試験の点数、それにクラス委員になった回数など、その他幾つかのデータをいくら集計・数値化しても、一人の生徒を評価するなど出来もしない事であって、順位付けには意味はまったくない。こんな簡単なことは誰もが分かっているわけだ。

しかし、これを言うと、ビジネスにはならない。

ならないはずのビジネスをビジネスに出来たのは、大衆(?)が根底で抱いているエリート崇拝(?)の心理であるに違いない。


ビジネスにはならない生煮えの商品を誇大にフレームアップして販売を増やすのもマーケティングの一環だと言われればそうかもしれない。が、社会的には明らかな失敗である。そんな可笑しなビジネスも一度それが企業利益にビルトインされてしまうと、制度化されてしまい、変革が難しいのだ。上に引用した今回の動きは、現場の人間なら普通に感じてきた当たり前の感覚が、実は内容貧弱であったビジネスの継続性を否定してしまった例として記憶されるだろう。

ま、こんな風に観ているところだ。

日本にも、内容空っぽな《数字ビジネス》に意味もなく経済資源を投入している例が非常に多いと感じている。上の記事は日本社会にとっても有益な情報だと思った。



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