一月ほど前はまだ拙宅の周りは雪一色であった。
ところが、この一月の間に、道の両側に降り積もった雪は融けてしまった。近隣の人たちが雪割りに勤しんだことも雪解けを早めた。黄金週間前に桜が開花すると予想されているのも北海道に来てから初めてだ。
今日の午後、近くを散策すると枯れた芝草の間から丸坊主のような緑の
潮風の 薫りとどきて 蕗の薹
いま、毎日の暮らしに不足や不満、不安はない。足るを知れば幸福が訪れる。しかし若い頃を振り返ると、いかに周囲の期待を裏切り、いかに多くの人を失望させてきたかに愕然とする。いま分かるなら、もっと前に分かっていたかった。その時は我が道を歩いているつもりだったのだ。自分の人生はこうだったのだと思うしかない。悔いはある。その悔いを癒せるのは行動でもカネでもない。要するにもう無理なのだ。小生の場合、引き受けるべき負担がこんな形になってはね返っている。フリーランチはないわけだ。ここに信仰というものの意義があると理解するまでに長い時間がかかった。
本ブログで例えば<阿弥陀>、<他力>で検索すると、結構な投稿がかかってくる。ブログとはWebLogの意味だが、なるほどその通りである。
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10年以上前の投稿になるが、こんな事も書いている:
毎月の月参りで亡父母への読経をお願いしている住職が盆供養に来た。帰りにパンフレット『はちす』を置いて行った。読むと大本山の一つである清浄華院の詠歌について説明がある。
雪のうちに 仏のみ名を 唱ふれば
つもれる罪ぞ やがて消えぬる
阿弥陀如来の名を唱えて只管に他力信仰を実践すれば、金銭欲、愛欲、名誉欲で汚れきった自分の心が浄化され、清らかになり、幸福に至る道に戻ることができる。
このような文章はそれ以前に何度も読んだりして来たはずだ。だが、要するに分からなかった。ピンと来なかった。宗教と科学との主たる違いはここにある。
データに基づいてロジカルに結論を出す科学は万人が理解しやすいのである。信仰は分かる人には分かるが、分からない人には分からない。仕方がないではないか。
宗教だけではない。哲学もそうである。カントの『純粋理性批判』を読んで、一体どの位の人が「よく分かる」と言うだろう?分からなくて当たり前なのだ。ロジカルに議論しているはずの哲学であっても、内容が分かるのは分かる人だけである。同じ事情は数学にも当てはまる。
多数の人が分からない、だからといって、それには意味がないとは言えないわけだ。多数の人が分からないことで重要なことは無数にある。というか、多数の人が分かる事は、要するに簡単な事柄に限るのである。
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ところが、簡単であり、重要なことでありながら、実現できていないことは多い。
足元では
平和を犠牲にしても、もっと大事なことがある。
そんなことを政治家はよく口にする。しかし、こんな見解を真に理解できる人がどれだけいるだろう。わが身の事と考えて「その通りだ」と理解できる人は多数を占めているのだろうか?
むしろ
戦争よりは平和がよい
小生はこちらの方が自明だと思う。この当たり前のことは誰でも分かるのではないだろうか?そして、この簡単な命題が真ではないのだろうか?
だとすれば、簡単で真理でもあるが実現できていないわけである。実現を妨げている要素があるからだ。
もはや学問上の問題ではない。当たり前の努力が欠けているのである。なぜ欠けているか・・・学者に聞いても答えは出て来ないだろう。
今日は『春近し』という感想から、思わぬ方向へ話が飛んでしまった。連想ゲームも時には面白い。
この辺にしておこう。
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