夢を見た。自分がいま暮らしている町だと思うが、ある煤ぼけた建物の玄関先、にわかな強雨で雨宿りをしていた。そこに世話になったことがある役所の先輩が通りかかり小生を拾ってくれた。家に寄っていけという。車は段々と町の奥へと走り山が迫ってくる。家並みが疎らになってくる。自分はこんな奥にまで来たことはない。やがて古いマンションの前で停まり1階の扉の前で『ここだ』と言われて、入ると奥さんが迎えてくれた。挨拶をして靴を脱ごうとする。ところが長靴をはいていて中々脱げない。脱ぐと横に倒れてしまう。直しながら『すいません、田舎に住んでいると、いつの間にか長靴の生活に慣れてしまって……』と言い訳をする。何だか場違いの様で肩がこる。
部屋に入ると先客が2,3人来ている。夢の中で判然としないが、一人はどうも顔見知りだ。会った事がある。先輩であったかもしれない。部屋が狭くて息苦しい。お互いにくっつくように座る。すると、顔見知りかもしれない人が、何だったか美味い料理か、食材のことだったか、小生に問うてきた。応えると『それは人気のある店か、何番目くらいの店なんだ』などと、そんな質問をする。『何番目って、なんて下らないことをきく先輩だ』と思って不愉快になった。……と、ここで目が覚めた。
小生の不愉快は先輩にも、以心伝心で伝わったに違いない。仕方がない。自分はこんな人間である。とてもじゃないが、可愛がられる後輩にはなれないネエ…。
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北海道の港町で暮らしていると、何番目とか、一番人気とか、地元で暮らす人間にはもうどうでもよい話である。全て日常生活の反復の中にある。自分が気に入って満足度が高ければ、何か必要な点は他にはない。実にシンプルである。
正に白楽天の漢詩のように
日高ク睡リ足リテ猶起クルニ慵 し
小閣衾 ヲ重ネテ寒ヲ怕 レズ
遺愛寺ノ鐘ハ枕ヲ欹 テテ聴キ
香炉峰ノ雪ハ簾ヲ撥 ゲテ看ル
匡廬ハ便 チ是レ名ヲ逃ルルノ地
司馬ハ仍 オ老イヲ送ルノ官ト為ス
心泰 ク身寧 キハ是レ帰スル処
故郷何ゾ独リ長安ニ在ランヤ
マア、小生も東京で20年余りを過ごした。そこでは何が価値であるかも知っている。自己本位とは正反対の他者本位の価値観もよく理解しているつもりだ。そこから由来するランキングや△△番付、順位付けも馴染みである。関心の高さも知っている。それでなくとも日本人は<偏差値>が大好きだ。
夢の中とは言え、そんなエンプティで空っぽな価値観を思い出したので、目覚めた時はまだ不愉快な気持ちが残像のように心の中に残っていた。
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評論家と言うよりは文人・江藤淳を初めて知った講演については少し前に投稿したことがある。その埋め合わせと言うわけでは決してないが、江藤淳の著作を読むのを小生は好んできた。
最初にまとまって読んだ本は『夜の紅茶』というエッセー集である。今でも持っているその本の奥付きには1972年4月第2刷とあるから、どうやら上の講演会で江藤という人の存在を知って早速その人の書いた本を買ってきたものと思われる。小生は、その頃、その中にある「ミスター・エトウ・イズ・オン・ヴェケーション」という章が大好きで、
本を読んだり、原稿用紙に向かっていたりはするのだから、私は働いていない、というのではない。そうかといって、働いているのかといえば、そうだともいえない。私はこのごろ、小鳥の声と雑木林をわたる風の音を聴きながら、窓外の緑の木の間の青空に、白い雲が流れて行くのを、ボンヤリ眺めていることのほうが多いからである。
特にこの一節は、至福の時間のようにも思えて、こんな風に生きて行けるなら「最高」だろうなあと思ったことをまだ覚えている。
江藤淳の代表作と問われたら、未完ながら第1部から第5部にまでわたる『漱石とその時代』を挙げる人が多いと思う。何度も繰り返して読むに値する作品だが、第3部の終わり近く、24章「朝日新聞社入社始末」の中に
小生はある意味に於て大学を好まぬものに候。然しある意味にては隠居の様な教授生活を愛し候。此故に多少躊躇致候。
漱石による書簡の文章が引用されているが、この「隠居の様な生活」というのは、不足や不満から解放され自立している人間の究極的なあり方とも考えられ、小生もこの辺は同じ感覚なので、非常に気に入っている個所である。そして、いま暮らしている町はそんな人生を送るには大いに適した場所である。生きた時代が違っても一人の作家に魅かれる時というのは、自分と同じことを感じながら生きた人がここにいることを発見する時である。現実の世界では自分と同じことを考えている人に巡り合えないと感じているのであれば猶更のことである。友を過ぎ去った過去に見出し、文章を通して会話し、今は過ぎ去った世界を胸中に再現して、リアリティとするわけである。かつて蕪村が100年も昔に生きた芭蕉を「心友」にしたと伝えられているが同じことだ。明治の俳人・正岡子規が蕪村の中に近代的詩人の感性を見出したのも同じである。
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人の役に立ちたいと願うことが、それ自体、悪いことだとは思わない。
ライバルと競って、自らのスキルを高め、ナンバー・ワンの評価を求めて努力すること自体は、立派である。
何故なら、そこには自由な選択があるからだ。小生は修羅場が嫌いになったが、最後までそれを選ぶ人もいる。
そうではなく、自分の身体をどう使うかを他人の希望に任せたいというのは嫌いだ。まるで自分を使ってくれるご主人様を求める奴隷ではないか。動く手足を自分で持っている他人の手足の代わりになって、自分の手足を使わせたくはない。手下や刺客になるのは真っ平だ。
自分の身体の使い方は自分で決めたいと思う。
だから第1位やベスト10とか、他者評価を知って、それを自分の評価とする人生はおくりたくない。
であるのに、夢の中に出てきた先輩から「どこが一番の店なんだ」などと、実に下らンと思って目が覚めたのは自然なのだが、もう勘弁してほしいと思う。
【加筆】2023-3-19
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