世間では自衛官候補生の実射訓練中に起きた傷ましい殺傷事件で持ちきりだ。国防を担う組織の教育現場で起きたこの事件をどう受け止めればよいのか、正体の知れない漠然とした不安を感じる日本人は案外多いのかもしれない。『味方が信じられない、いきなり発砲してくるかもしれない、どんな逆恨みをされているかもしれない、敵よりは味方が怖い……』と、こんな心理を抱きながら軍務を全うできるはずがない。
自衛隊も軍隊である ― この当たり前の事実ですら正直に認めるジャーナリストが何と少ない事だろう。であれば、個々人の主体性は認められるはずはないのであって、武装した自衛官は例外なく命令に従わなければならない。というより、自衛隊に勤務する自衛官が<主体的に>行動できる自由をもっているなどと考えれば、それはもう「文民統制」ではない。
しかし、この「命令には絶対服従」という組織原理と、現代日本社会で行われている教育一般の場の基本方針とは、いま根本的に矛盾しつつある。そう感じるのだ、な。
★
ただ、一般社会と軍を隔てるこの溝の深さは、先進的な民主主義国ではどこも同じような状況ではないだろうか?そんな憶測もできるのであって、韓国辺りは兵役の義務を果たすために入隊してくる若者世代にどう接するかで軍当局は結構苦心していると伝えられている。
韓国は、膨大な人数の若者世代ほぼ全員に対して、とにかく曲がりなりにも「軍事教練」を施すわけだから、逆の意味で現代社会の若者にどう向き合えばよいのかが上層部にも分かっているのかもしれない。
戦前期の日本でも同じような悩みがあったかもしれない。即ち、明治時代に日清戦争、日露戦争と二度の戦争を行った後、1900年代から1920年代まで日本は(小規模の軍事行動はあったにせよ)相対的に平和な安定期を謳歌した。いわゆる「大正デモクラシー」と「都市文明」の発展で、究極の肉体労働者である軍人の肩身は狭くなり、洗練されたビジネスにつく都会人の羽振りがよくなった。
こうした「風潮」に軍当局は危機感を募らせたのであろう。大正14年(1925年)、普通選挙が導入され、同時に治安維持法が施行されたのと同じ年に、全国の官立(=国立)、公立中学校以上の学校で「軍事教練(学校教練)」が授業となり、現役の陸軍将校が全国の学校に配属されることになった。亡くなった父はこの軍事教練を受けた世代である。年の離れた叔父の中には戦後教育を受けこの軍事教練の事を知らない人もいた。そんな若い叔父は小生と似たような感性をもっていたものだ。
今の日本でこんな授業が開設されるはずもないが、約20年間という長い期間、軍事教練という授業のために日本全国で投入された時間と経験は、善いにせよ、悪いにせよ、無視しえない効果や影響を日本人全体にもたらしていたはずである。
もちろん、こんな議論は現代日本においては、何の意味もない。
★
少し前の投稿ではブログ内検索をかける面白さについて書き記した。今度は<幼稚化>をキーワードにして検索してみると、これまた「こんなに投稿していたのか」と驚くほどの量がかかってくる。結果のURLをここに残しておこう。
たとえば
茨木市消防署で起きた消防士同士の「いじめ」事件がまたワイドショーをにぎわせている。この種の話題はテレビ局の大好物である。これからどんな展開を見せるか分からないが、加害者である上司3名は既に懲戒解雇されたようである。被害者の20代の消防士がこれからどんな職業生活を送ることになるかはまったく想像がつかない。
30代から40台にかけての中堅が若手を「鍛える」と称して、実質的には「いじめ」を繰り返していたとなると、先日神戸市内の某小学校内で起きた教師同士の「いじめ」事件を思い出す。こちらもまた加害者が「じゃれあった」と語っているそうだから、今回の消防士同士の「いじめ」事件と共通した側面をもっているようである。
「ああ、こんな事件もありましたネエ」というところか。この後にはこんな文章を書いている:
前にも書いたのだが、小生が大学に戻った平成初めの時代に比べると、この20余年間で大学生の幼稚化はものすごい程のスピードで進んだ。その幼稚化の進行が逆転したとか、進行が緩やかになったということは聞いていないので、今もなお大学生の幼稚化は進行中なのだと憶測する ― もちろん急増しつつある留学生は除いた話である。キャンパス全体の雰囲気とは別であることを付言しておく。
どう「幼稚化」しているのかと聞かれると困る。実地に体験するのが一番だが、多分、ほとんどの人はビジネスマンとして若手同僚とコミュニケーションをとったり、あるいはアルバイトに採用した若者と話し合ったりしているに違いない。同様の感想をもっている人は、40代、50代のかなりの割合を占めるのではないかと、小生、想像しているのである。
やはり現在の20台は20年まえの10代、現在の30代は昔の20代である。いまの大学生は昔の高校生か中学生、そろそろ中堅のはずの30代は昔の20代ルーキーに近い雰囲気を漂わしている。マ、あくまで小生の主観ではあるが……。
実は、小生のカミさんも30年来のママ友たちと
今の30代ってサア、何だか私たちの20代と同じ感覚だよネエ
と、まったく同じ話をしているというから、結構、共通の認識なのだと思われる。もちろん、上の世代からそう思われていることが下の世代に分かっているかと言えば、それは分かっているとは思えない。というより、心の中身なんて見せてあげられる道理がないわけだ。
若いうちには分からないことが齢を経るとともに分かって来るのが人生というものサネ
そういうことだ。
小生の経験を振り返ってみても、一般に、大都市圏で育った友人は田舎出身の友人よりは、対人関係が上手で、社交的かつ円満である。より多数の、色々なタイプの他人と触れ合う日常の中で、世間を生きていくのに不可欠の感覚が磨かれるのだと思っている。どんな不器用な田舎の少年であっても、社会に出て、仕事をして生きていくうちに、ほぼ全員が「円く」なっていくのは、他人と触れ合う中で鍛えられるからに他ならない。
もちろん他人と触れ合う中で円くなっていくプロセスが、自分自身の志を失うプロセスであってはならないわけで、この辺のバランスを修得することが、即ち《人間的な成長》という言葉で表されることである。
ま、こんなことは書き記すまでもなく、ある時代までの日本人なら当たり前の事だった(はずだ)。
★
福沢諭吉は、社会の中の障壁が取り除かれ、人間同士の交易が広がることによって、社交が生じ、そうすると自然に知性が磨かれ、人格も鍛えられ、個々人が啓蒙される。それが《文明》なのだと『文明論の概略』の中で書いている。
東南アジアやアフリカの密林の奥で、部族の中の生活のみを経験して成長しても、広い世界で生きる様々の人間たちとコミュニケーションをしながら、社交を行い、その中で他人の協力を得て自らの志を実現するという、そんな文明的な人生を送るのには困難を覚えるだろう。
教育とは<人づくり>である。尊皇攘夷に燃える青年にいくら開国を説いても相手は殺意を高めるばかりである。何かを理解してほしい時には適切な方法論が要る。
★
あるコメンテーターがTV画面の中で
弾倉を<勝手に>装填したことで<叱責>されたのに対して、理不尽だという怒りがこみ上げたのかもしれない。あるいは、何か理不尽や非条理を訓練中に感じた瞬間があったのかもしれず、それに対する怒りが鬱積していたのかもしれない。
おそらく何の根拠もなく、勝手に想像で話していたのだろうが、想像にしては何だか分かるところがある。
若者は自分が感じる怒りは正当なものだと信じる傾向がある。要するに《純粋》なのだ。打算のない純粋の感情は若者特有で美しいものである。
残念なことは、純粋であることが往々にして未成熟と裏腹になっていることだ。「成熟する」というのは、自分の怒りが、多くの場合、自らの理解力が不足していることから生まれるものだと知ることである。
成熟は、即ち老成である。一般に、老人は自らの怒りに任せて行動することは減る。別に自信を失っているのではない。自分自身の知識や考察の正当さを疑うのである。自己の成長は自己への懐疑によって得られる。懐疑は自省と同じだ。自己に対する肯定と否定の間で迷うことが必要なのだ。こんな当たり前の常識は、例えば吉川英治の大衆小説『宮本武蔵』を読んだ人なら誰でもピンと来るはずだ。
疑いを持たない自己は自省なきが故に必ず幼稚なのである
だからこそ、他人によって自分がいじられるという経験は、幼少期に済ませておくのが成長にとって大事だ。優しい大人たちが見守っているだけではダメである。
★
よく思うのは、令和の18歳は昭和の12歳(小学6年生~中学1年生)とほぼ同じ成熟度ではないかということだ。知識や学力、スキルではない。人格の形成という次元である。またこれはトップ対トップの比較ではない。マス対マスの比較だ。この点はもう多くの人が近年痛いほど感じていて、もう社会としても認めるしかないのではないかと思うのだ。そう前提して、法制、教育、指導などの問題に取り組むべきではないだろうか。
少年であった日々、中学1年で『風と共に去りぬ』や『嵐が丘』に読み耽っていた一歳年上の女子が持っていた感性は、たとえ同じ作品を読む少年少女がいまいて、外見的にはどこか昔を思い出させる印象を覚えるとしても、今の子にはどこか(小生にとっては不可思議な)幼さが残っている(と言うべきか)。
ともかくもずっと昔は『人間50年』、15歳で元服し戦場で命のやりとりをして、30を過ぎれば一族の家督を譲られて当たり前。女性は15歳にもなれば結婚相手を探して最初の子は20歳前に産む。こんな時代であったのだ。人間一人が全人生を通して到達可能な人格的レベルは今と昔でそれほど変わらないとすれば人間的成熟の速度がスローペースになっても当然だろう。
自衛官を志す動機が純粋であったにもかかわらず、当事者の理解力の水準を的確に察することなく、怒りの感情を醸し鬱積させ暴発するに任せたとすれば(いま日本国内の組織内には共通する悩みになりつつあるが)、撃った側、撃たれた側、双方の側において「人材の浪費」というには余りに惜しい事件だ。ただそれだけである。
今日はこの辺で一つ話しがまとまったということで。
0 件のコメント:
コメントを投稿