2023年6月12日月曜日

断想: <DV>という問題に関する考察ログ?

時々、思いつく語句をキーワードにしてブログ内検索をかけるのは楽しい。ブログとは"Web Log”、つまり「ウェブログ」の事で、これを省略して「ブログ」という新語を造ったわけだ。だからブログとは、航海日誌であるし、人生航路でもあり、思考の記録である。ブログを読み返すのは、何年か前に訪れた海浜や山村の風景を思い出すことにも似ていて、あらゆる思い出がそうであるように懐かしいものである。

今日、<DV>で検索をかけてみた。結果のリンクを残しておこう。

多数の投稿が出てくるが、一つ一つはほとんど脈絡なく投稿していたはずである。ところが、検索結果から引用、列挙してみると、一連の感想が浮かび上がってくるのは自分でも意外に感じるものだ。

女性を家庭に閉じ込めようとも、社会で活躍してもらおうとも、一定の頻度と割合でセクシャル・ハラスメントは発生する。与えられた国の社会的リアリティの結果としてハラスメントやイジメは理解するべきなのだ。もしもそうならそのような社会的メカニズムは何から生じるのか? 家族構造、家族道徳に由来するものか、生活水準によるものか、道徳の欠如によるものか、日本人のそんな意識構造の分析的研究が何よりも必要とされている。そう思うのだ、な(仮説にたった議論ではあるけれど)。

そんな研究の一連の成果の中から、「セクシャル・ハラスメント」ばかりではなく、学校という場のイジメ、職場におけるイジメについても、もっと軽微な程度の嫌がらせについても、全体的な解消、というよりは減少への方向が見えてくるに違いない。

DVとは(勿論)"Domestic Violence"のことだ。一般に、Offence vs Defence、つまり他者を攻撃する"Violent"である側に対して相手が対抗して防御の行動に出た所で、状態は対立状態となるが、そんな出来事は泡沫のように毎日発生するものだ。低気圧が発達して台風になるように、その対立状態が拡大、成長すると

Conflict(対立) → Struggle(小競り合い) → Fight(喧嘩) → Battle(戦) → War(戦争) → World War(世界大戦)

何かの専門書をみたわけではないが、マア、こんな段階を辿って「戦争」に至ることもあるわけだ。 もちろん低気圧が台風にまで発達するためには、海水温や水蒸気のようなエネルギー源が不可欠なように、日常的小競り合いが世界大戦にまで発達するには、戦争にまで発達させる大きなエネルギーが不可欠だ。

防止のための法制化、処罰などはまず基本的かつ科学的知識の蓄積があってこそ効果を期待できるものだ。それまでは、むしろ嫌がらせや喧嘩の類は当事者の面々の和解(あるいは敵対関係の持続)に任せて周囲(=社会)としては放っておくのがベストであるという、そんな伝統的解決法にもまた耳を傾ける余地はあるというものだ。

夫婦喧嘩は犬も食わない・・・イヤ、イヤ、これまたハラスメントを増殖させる傍観者的態度というものか。まあ、現代社会の頭に血がのぼった面々はそう言うかもしれないが、何百年も継承された格言というのは経験的知見のかたまりでもあるのだ。

こんな風に結論づけているが、これは2018年4月の時点で考えていたことである。前に投稿したことがあるが、日本古来の理由の如何を問わない《喧嘩両成敗》は、粗雑ではあるが、広域的な平和を維持するうえでは、有効なルールであったに違いない。この「喧嘩両成敗」で検索をかけると、意外やロシア=ウクライナ戦争とは別の投稿もかかってくるから面白い。

 そうかと思うと、「DV」でこんな事も書いている。

小生は、ズバリ、親族が親族を扶養する。それを最優先で考える。この考え方には心から大賛成である。なぜなら、親族が団結し、経済的な問題はまず家族で、それから親族間で、相互協力すれば、まず最初に雇用保険は不必要になろう。なくしてもよい。国家直営の公的年金制度も要らない。なくしてもよい。医療保険も、国は自賠責ならず最低保障医療保険を制度化しておけばよいであろう。あとは自分たちでやるほうが余程賢い金の使い方ができるというものだ。故に、現行の保険制度はなくしてもよい。そうすれば現在の財政赤字もあっという間に解決されてしまうだろう。これのどこが悪いのか?政府は、親族中心・親族優先の社会を再構築してほしいものだ。そして負担の少ない、自由の多い社会を作ってほしいものだ。そのとき、各自に責任が生じ、責任を感じるとき、人は自然に成長するものだと思う。生まれてきた以上は、そんな人生をおくりたいものだなあ。

要りもしないのに、社会保障は必要だからと戦前期の政府が言い募って、その実は<財源拡大>が主目的であった。これほどの長寿社会になると分かっていれば、昭和48年の「福祉元年」も絶対になかったであろう。だから、報道されたように「親族が親族の面倒をみてほしい」と国自らが言い出したのは「国も肝心なところが分かってきたではないか」と、この点だけは心から大賛成なのである。

ただ、一方で親族の扶養責任を問いながら、同じ政府が社会保障の維持運営に必要ですからと<消費税率の大幅引き上げ>を提案しているのは、これ以上に無遠慮・無作法・無責任なやり方はないかもしれない。まあ、<三無主義>政党政権であれば、不思議ではないが。

これを見ると、小生は相当のへそ曲がりでありながら、正真正銘の自由主義者であることだけは一貫しているようで、だからコロンビアの航空機事故で遭難した4人の子供達がジャングルで自活して生き延び、今回、40余日ぶりで救出されたという報道を聞くと、『これが人間本来の姿なんだよ』と激しく感動したりするわけだ。

「社会」や「国」は限りなくフィクシャスな存在だ。単なる約束ごとで、「今はこのアリ塚の周りで多くのアリが動いているようだ」というレベルの実態的現象に憲法や法律という文章の衣を被せた擬制的存在に過ぎない。「社会」は日常を延長させればリアルな実態に見えるが本質的には錯覚である。それは近年の世界情勢をみていれば直ちに分かる事だ ― そもそも小生は唯物論、唯物史観を基本的には信じているのである。だから、日本社会で何かの問題が起こるたびに、政府や警察、司法その他の公的機関の責任を追及して、natural reality(自然の実態)よりlegal discussion(法的議論)を求める世論やマスコミ報道は、決して賢い頭の使い方とは思えないのだ、な。 

マア、キリがない。全部読んでいると時間の無駄かもしれない。それでも面白い。

本来は、成文法を遵守するという法治主義と信仰する神(唯一神からもしれないし、阿弥陀如来かもしれず、あるいは八幡神かもしれないが)という次元の違うこの二つの観点は、方向が重なり合わないX軸とY軸のように交差して、現実社会を規律づけていたはずだ。

ある面では法により統治し、別の時は宗教的感情から裁定する。そのバランスに苦心してきたのが現実の歴史である。どちらか片方に偏ると、この世は非常に生きづらくなる。 そう思っているのだな。

だから、暴力を旨とする反社会的悪人がもしも魂の救済を求めて六字の名号を唱えたいと寺を訪れれば、社会の法に反して生きているかどうかにかかわらず、阿弥陀如来による救済を願う権利はある、というよりその種の人間こそ真っ先に救われるべきなのであるから、寺は迎え入れるべきである。宗教はその種の人を受け入れることをこそ任務としている。それが憲法の定める信仰の自由でもある、と。そう思っているのだな。

これは天台宗総本山・延暦寺に関する報道を受けて投稿した一部分だ。「反社会的組織」の排除を宗教までが追随するような時代になったかネエという思いから書いたのだろう。 


結構、何年も前に書いた投稿が検索にかかって出てくる。「ああ、こんな事を書いていたのか」と改めて再発見したり、「考え方、まだ変わっちゃいないんだナア」と妙に納得したりで、かえって自信というか、確信につながったりすることが多い。

 



0 件のコメント: