前稿では「日本語の乱れ」から「若者言葉」、「現代日本語?」へと、思いつくことを書いた。
今日はその敷衍、というか補足ということで。
現代日本では世代ごとの言葉の違いが際立っていて、おっさんとZ世代ではまともな会話すら困難だと言われたりしている。
つまり、年齢による《クラス境界》が日本では非常に目立っているということだ。
一般に、社会は幾つかの部分社会、クラスやサブクラスで部分集団が形成され、異集団との交際を避けたり、集団内での婚姻率が相対的に高かったり、あるいは集団内でのみ使われるローカルなスラングなり、慣用的な言葉の違いが発生したりするものだ。現代のフランス語やイタリア語、スペイン語も元々は古代ローマ帝国の公用語であったラテン語から生まれてきた方言である。現代イギリスのロンドン下町で使われる英語をネット上の動画で時に聴くことが出来る時代になったが、BBCの英語に慣れた耳にはサッパリ入ってこない(はずだ)。
同じ母語でも言葉の違いは世界のどこにでもある。その違いは、人々が属するクラスの違い、つまり《クラス境界》の存在から生まれていることが多い。
クラス境界として最も典型的なものは地理的な境界である。特に、封建制度下で分国ごと、領国ごとに、ほぼ完全に閉鎖的な空間に分かれて人々が暮らしていれば、地方ごとの方言に大きな違いが生まれるのは当たり前である。明治初期において、日本語の違いは世代ごとではなく、出身地ごとの違いが最も大きかったのは極めて自然な結果だ。
江戸時代に使われていた日本語の違いは、地域に加えてもう一つの要素があった。それは身分による言葉の違いだ。福沢諭吉の『旧藩情』を読んでいると、こんな下りもある。フリガナもあるのでそのままコピー・ペーストしよう:
これを
見て呉れよと みちくれい みちくりい みてくりい みちぇくりい
いうことを
行けよという いきなさい いきなはい 下士に同じ 下士に同じ
ことを 又いきない 又いきなはりい
いうことを 又どをしゆうか
この
このように江戸・旧幕時代には、地域と身分がクロスした2次元で多種多様な日本語があったわけだ。勿論、例えば大ヒットした滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』や十返舎一九の『東海道中膝栗毛』を何歳のときに読んだかで、記憶の違いはあるわけで、年齢による話題の違い、言葉の違いはそれなりにあったろうと思われる。が、現代日本社会のようにシニア層とジュニア層で言葉が違うという感覚はそれほどは意識されていなかったのではないだろうか?世代の違いより、出身地の違い、身分による言葉の違いが遥かに大きかったに違いない。
なお、違いというのは「口語」の違いで、文章を書く時の文語は日本共通であった(と言えるはずだ)。能・狂言の台本は原本が一つだけ。上にいう戯作本、滑稽本も日本全国同じだ。「言文一致」というのは共通の言葉である文語を解体する作業でもあったわけで、この辺の話題はまた別の時に何か覚え書きするかもしれない。
現代日本社会には、もはや家柄・血統に基づく身分の違いはない。格差と言えば「経済格差」を指すときがほとんどだ。またTVの発達したいま、日本のどこに行っても「よそ者」、「お客さん」と話すときには標準語で会話するようになった。小生とカミさんは育った愛媛・松山の言葉で話しているが外に出れば標準語だ。だから、現代日本人に残る固いクラス境界は年齢層、つまり「世代」くらいしかない。そしてその原因は、これまた明らかで、年齢による学年進行型の学校制度が主因だろうと思っている。
戦前日本にも年齢進行的な要素はあった。学齢と云うものが既にあった。が、戦後日本になってからは、学校にあっては学年進行、会社・役所にあっては新卒採用・年功序列による年齢区分が非常に厳格に守られるようになった。『同じ年齢層=同じ釜の飯を食う』という感覚だ。同じ年齢層=同じ社会的ポジション、年齢差があれば生活空間も違う、そんな社会システムだ。つまり、「▲▲世代」などという表現があるのは「年齢輪切りシステム」の為せる結果である。地域と身分でクラス分けされていた江戸時代の日本人には「〇〇世代」という言葉は生まれようもなかった(はずだ)。「〇〇世代」が社会的なクラスとしてあるなら、その世代特有のスラングが発生するのは自然な事だ。
もしも年齢輪切り型ではなく、(例えば)全国民に配布する「教育クーポン」によって一定年数だけ無償で学校教育を受ける権利が与えられる方式であれば、学校の1クラスには様々の年齢の生徒が混在するであろう。なので、今のように年齢によるクラス境界が生まれる素地は弱まる理屈だ ― これは別の話題なので深入りはしないが、この「教育クーポン」(無料かもしれず、あるいは教育段階によっては有料でもよい)と「卒業検定テスト」(学制で設ける学校段階ごとの)の組み合わせは、今の時代状況には相性が最もよいと信じている。が、これは別の機会で。
マ、何にせよ、会話を聞いているだけで隣室にどんな客がいるのかが大体わかるような社会は、多くの日本人にとってあまり暮らしやすい社会とは言えないような気がする……とはいえ、年齢でなければ、所得階層、職業、出自、人種など様々な要因から人は他と違ったローカルな言葉使いをしたがるものである。その原点にあるのは、当然ながら、男女間の言葉の違いである。なので、言葉の違いが100パーセント解消するという情況は来ないだろうし、また望むべきでもないと感じる ― 人は色々ではあろうが。
【加筆】2023-06-22
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