2023年6月30日金曜日

徒然: 弟の退職で思い出すこと

いわき市在住の弟がこの6月15日で退職した。小生が北海道に移住した時点ではまだリンレイ秦野工場に勤務しながら独身生活をしていたが、間もなく同じ工場に勤めていた人と結婚して、秦野駅からほど近い所に新居を設け、新婚生活を送っていた。その後、定年まで暮らすいわき市に移るまでの間に、小生にとっては突然なことであったが、リンレイを辞めて長野県・大桑村に引っ越し、そこで林業に従事していた時期がある。

その頃は既に日記をつけていたから書棚から数冊のノートをとりだし、調査官が供述調書を吟味するように順にページをめくっていくと、

1996年8月13日(火)

溽暑。〇〇から来信。△△を退社して信州大桑村に本社をおく太田木材に転職する由。9月3日に転居するとの知らせあり。電話をしても留守。

・・・

数学の入試問題を作成し終わる。

1996年8月15日(木)

台風接近のため午後から強雨。郵便局により丸善から届いたW. Gorman "Separability and Aggregation"の代金を送金する。

明日からIARIW、LIS( Luxembourg Income Study)に出発する。

昨晩、〇〇と連絡がとれ安堵する。転職には賛成、激励する。転居して1、2日して着く頃合いを見計らって麦酒を送ろう。年末か年始に一度木曽路を訪ねるからと言い置く。

こんな記録がある。これを受けてか

1996年12月27日

妻籠の松代屋旅館に投宿。〇〇達は7時頃に合流。酒を飲み鯉料理に舌鼓を打つ。それにしても寒い。

1996年12月28日

須原の〇〇宅を訪れる。元民宿だけあって部屋がいくつもあり広い。

と記してある。寒い信州に転居した弟夫婦がよほど気になったからか、その年末にフェリー経由で車を走らせて行ったことを思い出す。

その後、

1997年2月13日(木)

昨日、信州から届いた蕎麦を、今晩、天麩羅とともに食す。〇〇に電話する。木曽谷は零下9度まで気温が下がるという。寒いという。しかし、こぶしの花が咲くのはこれからであり、林檎の花が咲き並ぶ頃は、文字通り、島崎藤村の世界だと話す。

1997年3月27日(木)

晩食に〇〇から届いた信州蕎麦を調理する。大根おろしを薬味にする。美味。

こんな風に続いている。ところが

1997年8月11日(月)

・・・〇〇が新しく移り住んだ福島も結構蒸し暑いそうである。

と書いてあるので、信州からいわき市に転居したのは、この年の3月末から8月までのことであったはずだ。然るに『ぼく福島へ移ろうと思うんだ』と言った風の連絡のあった事が何も書かれていない。

ちょうどその頃は、3月下旬にJICAの関係で南亮進先生や高山憲之先生と一緒にウズベキスタンを訪れていたので、ひょっとすると小生が不在の内にカミさんに電話があったかもしれず、実際この前後の日記はウ国訪問の準備や資料整理で一杯だ。残念ながら弟家族の福島転居は記録から漏れてしまったようである。この後、間もなくのことになるが

1997年9月12日(金)

昨朝のことだが、◎◎さんからカミさんに電話。暫く話をしていた。木曽から磐城に転居して大分落ち着きを取り戻し大いに安堵している様子との事。二人目の子ができたよし。

弟家族は、最初はいわき市勿来町にある化学メーカーが提供する社宅に入ったはずなのであるが、そこには馴染めずごく短期間のうちに勿来町内の白米林の中という所で売られていた一戸建てに引っ越していった。弟の連れ合いからカミさんに電話があったのは、新しい家に移った後であったかと思う。

その◎◎さんも2016年1月末に大動脈解離で亡くなってしまった。

妻籠にて 宿ともにせる  同朋 はらから の 
    妻にてありし  ひと ぞ懐かし

弟は、まだ同じ家で二人目に生まれた娘と暮らしている。上の息子はすでに結婚して茨城県の公立高校で音楽教師をしている。小生の亡くなった母が最後に暮らしたのは取手市戸頭にある住宅公団の団地であった。顔を見たことのない自分の孫が同じ県内の高校の音楽教師として生計を立てていることを知れば、音楽好きだった母も喜んでいるに違いない。


先日、弟に電話をかけて『今度、親父とお袋の墓に墓誌を新しく建てるから出来たら一緒に墓参りでもするかい?』と聞いてみると、まだそんな気になれない、一回リセットできるまでもう少し待ってくれるかという返事だった。

今は何してるときくと、資格試験をとるために勉強してるんだという。何の資格だときくと、火薬類取扱保安責任者の資格試験を受けたいのだと云う。これは(例えば野球でいえば)ストレートを要求したところ鋭いフォークボールが来たような感覚で当惑する気持ちを抑え難かったのだが、よ~く思い出してみると、小生も現役から非常勤に引退した当時、読みたくとも読めなかった本を心ゆくまで読めるようになったのが最も嬉しかったのだが、その中にモーリス・パンゲ『自死の日本史』があった。その頃、弟から偶々かかってきた電話があったとして『いまナ、自死の日本史って本を読んでてサ』などと語れば、電話の向こうは「これはいかに?」と不審な気持ちを抱いたかもしれない。

普段離れている人間どうしが、たまたま電話で話をする時には、いくら互いに分かりあっていると思われても、定型的で中身が詰まっていないことしか話ができないものである。

 



 




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