2023年7月16日日曜日

断想: 「論争、イイんじゃない」。これもアメリカのメディアの変わらない長所?

日本にもかつて《論壇》というのがあって、例えば経済政策についても「高度成長派 vs 安定成長派」が激論を繰り広げた。それより前には、戦後早々の日本経済を前提に(確か)「貿易派 vs 開発派」の対立があった — この論争はかなり昔になり最近話題になることも少ないので語句については記憶が正確でないかもしれない。

「論争」は最近においても10年ほど前までは盛んだった。金融政策をめぐる「リフレ派 vs 反リフレ派」などは代表例の一つである。更に前には、タイトルからして挑戦的であった竹森俊平『経済論戦は甦る』がベストセラーの一角を占めた。不良債権問題で動揺していた2002年に出版された版を読んだと思うのだが、リーマン危機が迫った2007年刊行版もあるようだ。この時は、デフレ脱却 ― というより構造不況というべきであったが ― シュンペーター的な「清算主義」で進めるか、ケインズ主義で進めるか、この二つの路線対立が議論されていた。

将来は一寸先が闇であるから、とるべき経済政策について路線対立があるのは当たり前であって、それでも民主的な意思決定を繰り返しつつ、いずれかの路線を選択するわけで、具体的な政策の選択の背後には、特定の政策理念の採用が隠れているものだ。

かつては、そんな学問的論争が盛んに繰り広げられていたのを今になって思いだす。

確かに、口先だけの学問論争は無益に見える。しかし、だからと言って学問とは無縁の寡黙な政治家が何かの政策に政治家生命をかけて何かを断行する場合でも、その政策が真に独創的であることはなく、実はある時代に流行った誰かの政策理念をつまみ食いしていることが常なのであるというのはケインズが言ったことである。だから、普通の人が論争のアウトラインをメディアを通して少しでも目にしたり、耳にしておくことは、インチキでいかがわしい政策を見分ける基礎知識になるというものだろう。

その「政策論争」が、安倍一強時代が長期化する中で、政府批判となる学説を展開することに非常な勇気を要するような世相が醸し出されてしまったせいなのか、いま将来構想をめぐって、メディアも専門家も百家争鳴どころか、政策論争らしい論争がサッパリ広がらない。散発的に「提案」はあったりするが、言いっぱなし、提案しっぱなしでお茶を濁していると云うと言い過ぎになるのだろうか?

専門家と言っても、本音の部分では様々な意見を持っているはずであるのに、それを明言した時のハレーションを怖れ、口をつぐむ。語るとすれば、語るに足る人物・媒体・組織を選んでのみ語る。

結果として、論争が行われるべき状況であるのに、論争を行い得る人々が社会的反発を怖れ、結果として論争が行われず、そのため多くの人は知的刺激をうけることもなく、毎日を安穏に(?)過ごしていく・・・。もし、いまこうなりつつあるのでなければ幸いだ。

いまどの世界でも、社会全体が概ね1対4の割合で区分され、政策は上層部を構成する20パーセント程度の為政者・有権者集団で決定、実行される。何だかそんな社会に変わりつつあるのではないか・・・

そう思ったりしている折柄、パラパラとページをめくっていたウォーラーステイン『史的システムとしての資本主義』(訳:川北稔)の「将来の見通し」の中に《民主的ファシズム》という名称で、大体同じような方向性が(可能性の一つとして)挙げられているのには吃驚した。そこでは上層部20パーセントの内部では完全に平等な分配が行われる。残りの80パーセントは非武装の労働者プロレタリアートとして従属的な地位に固定される。

いや全く、怖い社会である。

時あたかも、というか絶好のタイミングで、Quoraに面白い質疑応答があった。

元はドイツ語の質疑応答なのだが、

ヨーロッパでいま人々の知能指数が急速に低下しているが、この原因は分かっているのでしょうか?

こんな主旨の質問があって、小生は「幼稚化という現象は先進国共通のようだネエ…」と感じ入ったのだが、この質問に対する回答がまた様々でありながら「生活環境の変化」に原因を求めるのは同じであるようだ — 遺伝子レベルで馬鹿になりつつあるわけではないということだ。これもまた一つの仮説だと小生は思うが。

たとえば、読書量の減少、オンラインの浸透、栄養摂取(の偏り)、メディア(の知的影響)が挙げられている。この回答者は、確かに後世代よりは前世代のほうが知能レベルは高いようだという感触をもっていて、これは例えば計算一つをとっても、筆算に頼っていたのが電卓やタブレットを利用するようになれば数字には弱くなるだろう等々、人間の知的能力を衰退させる「文明の利器」がそれだけ普及してきていることに言及している。

そして、とうとうChatGPTのような《生成AI》までが現れ、人間の思考のかなりの部分を代行してくれる時代がやってこようとしている。

多数の国民はこの波に飲み込まれ、ますます知的能力を低下させ、その幼稚化の度合いは加速するに違いない……、こんな未来予想図がかなり具体的になってきた。そんな感覚を覚えたのだ。

特にヨーロッパで生成AIに対する警戒感が強いのは、よく理解できるような気がするのである。何と言っても、健全な民主主義社会を維持するには、社会を構成する国民の大半が十分な知的能力を有していることが絶対に必要であるから。

こんな研究や問題意識は、いま日本社会にはあるのだろうか?ここでも「論争」をしてもおかしくはないだろう。

アメリカのメディア、学界はまだなお論争に対していささかも臆病ではない。

先日もKrugmanがこんなコラム記事をNYTに載せている。

In 2021, as inflation took off, the big debate was between Team Transitory — which argued that we were mostly seeing temporary disruptions from the Covid-19 pandemic, which would fade away over time — and Team Permanent, which placed the main blame for inflation on the combination of large government spending and low interest rates. I was on Team Transitory, but as inflation went far higher for far longer than I had imagined possible, I admitted that I got it wrong.

Source: The New York Times, 2023-07-14

URL:  https://www.nytimes.com/2023/07/14/opinion/inflation-economists-soft-landing.html

まず今回のインフレは一過性であると判断したのは自分の誤りであると明言している。主たる論敵はSummersである。

その後から

 By the summer of 2022, however, a new dispute had erupted. This pitted what we might call Team Soft Landing against Team Stagflation. Team Stagflation argued that getting inflation down would require years of high unemployment, just as it had in the 1980s. 

論争は第2ラウンドに入った、と。今度は、景気後退を覚悟するべきと言うハード・ランディング派と景気後退なしにインフレ収束が可能だとするソフト・ランディング派の対立であるという。

この(当面の)決着として

By and large, indicators of underlying inflation suggest that it’s still running above the Fed’s target, but it has come down a lot, with no cost at all in higher unemployment. Team Stagflation was wrong.

経済データを見る限り、今回の論争はKrugman側の方に分がある、と。

KrugmanもSummersもノーベル賞を既に受賞したか、受賞していてもよいほどのBig Nameだ。だから論争も中身があって実証的である。


他方・・・、

先日の経済財政諮問会議で清滝信宏氏が 「1%以下の金利でなければ採算が取れないような投資をいくらしても、経済は成長しない」という主旨の意見を述べてメディアもこれを話題にした。日銀総裁の植田和男氏も同席していたが、清滝教授の意見は植田総裁が日銀総裁に就任後に発言してきた政策判断とは相いれない。つまり論争の好機である。

にもかかわらず、日本のメディアはこの意見対立を深追いはしない。ご当人二人が気まずいというなら、それぞれのシンパである若手経済学者が丁々発止、論争してもプラスにはなれ、マイナスになるはずがない。

物事を荒立てない姿勢は、時によりけりで、だから日本は停滞するとまで言うつもりはないが、ちょっと臆病過ぎないかと思う訳で。


アメリカでは《論壇》なるものが今も機能しているのに比べると、日本の停滞ブリは仕方がないのかも。アメリカは一軍、日本は二軍と割り切れば、アメリカが舞台で、日本はファームだ。アメリカを舞台に英語でやりあってこその一軍だ。日本社会が静かなのはファイターズの鎌ヶ谷スタジアムが静かであるのと同じでしょ、と。何だかそんな風にも思われるのだ、な。今日もこんな徒然の一日であります。



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