2023年7月17日月曜日

ホンノ一言: 「福一原発処理水の海洋放出」に反対する側にも三分か五分の理はある

岸田内閣の支持率が「ダダ下がり」していると報道しきり。広島サミットで一時盛り返したが、その後の「マイナカード問題」、「異次元少子化対策」、これに加えて最近は「福一原発処理水の海洋放出問題」で地元漁協、韓国野党勢力、中国北京政府の反対を説得できていない状況が加わった。この途中で「衆議院解散風」を無用に吹かせたのも何か真剣味のなさが伝わって来て支持率低下の要因になった。

まあ、数え上げれば

どれをとっても、これじゃあ支持されるはずがないヨネ

と、そんな情けない状況に(やはり)なってきた。うちにアンケート調査の電話がかかって来たら、もはや「不支持」の回答をするかもしれない。そんな気持ちになってきている。

「福一原発処理水」の海洋放出に北京政府が反対を続けているのは、日本人からみると強硬な対日外交戦略に見えないこともない。韓国の野党勢力が猛反対するのも文政権以来の反日傾向の表れであると、日本人には見えるだろう。

しかし、そう言い切ってしまうと、地元の福島県民はどうなのか?漁協が反対しているのはただ「当たり前」ということで済ませてよいのか。保障金や慰謝料を東電(⇒国?)が払えば問題はすべて自然解決されるのか?そもそも漁協以外の福島県の人たちは海洋放出に対してウェルカムなのか?そんなはずはないでしょう、と。地元の人たちの深層心理はそうそう単純なものではないように思われるのだ、な。ここをキチンと把握しておくことが肝心な点だと思う。

韓国野党系のハンギョレ新聞だが、いい記事を載せている。韓流ドラマを視ていると国民性が分かるが、韓国の人たちは物言いがストレートである。そこには当然「ウソ」が混じる事もあるが、理屈は(屁?)理屈として構築するので、此方も(屁?)理屈で応酬できる面白味がある。

その記事を読んで成程と感じたので、反対論の核心を小生なりにまとめてみた:

私たちは単なる反日感情から「原発汚染水」の海洋放出に反対しているのではない。

日本の国民も東日本大震災当時のことを思い出してほしい。原発事故が発生した当時、東京電力はメルトダウンの危機を直ちに政府に報告し、対応について指示を仰いだか?その時の菅直人首相はメルトダウンの危機を予想し、何度も東京電力にその可能性を問うたが、東京電力は真相を隠蔽し「大丈夫です」と言い続けた。深刻な危機を隠蔽しようとしたのである。その同じ会社が今また福一原発の後処理を担当して、今度は「処理水」と称して「汚染水」を海洋放出しようとしている。「科学的には安全です」と主張している。

私たちは東京電力が言っている「安全です」というその主張自体を信用できないのだ。 日本人はなぜ東京電力がやっていることを信用できるのだろう。

仮に東京電力の主張を私たちも信じて海洋放出を認めたとしよう。日本政府と同じ評価をするとしよう。しかし、もしも処理水の成分データが危険性を示唆する状況が訪れた場合。東京電力はその事実を隠そうとするのではないか?原発事故の当時、実際に東京電力は深刻な危機を隠蔽した。その以前にも、新潟柏崎原発でデータの不正な改ざんを行ったではないか。処理水についても同様のデータ改竄が行われないと何故信じられるのか?

東京電力の現場の職員達が経営上層部の意を受けて危険性を隠したり、データの不正改ざんで共謀すれば、日本の経済産業省や現場に駐在するというIEA(=国際エネルギー機関)を巧みに騙すことは容易である。

故に、「科学的に安全が保障されているから大丈夫です」という主張を信用することはできないのだ。そもそも信用できる体制になっていないではないか。

かなり小生の主観が混じった要約になっているが、主旨は概ねマッチしている(はずだ)。

地元の福島県民の深層心理もこれに近いものがあるような気もするので覚え書きにしておく。

東京電力という企業をどう処理するかという問題が「汚染水の処理」という問題に先立つ問題としてある。ロジックはこうなっている。そして、民主党政権を引き継いだ自民党政権は公的資金を注入して「東電を企業体として残す」という道筋を選んだ

このブログでも<東京電力 東電>でブログ内検索をかければ、何度も投稿をしてきたことが分かる。昨年の投稿でも

東京電力が原発施設を運営するのは、ほとんど「不可能」とは言えないまでも、国民の大多数が抱く強い拒絶感を政治家は無視できないのではないか?

こんなことを書いている。 北海道に住んでいる人間でもこう感じる。

現時点のデータはなるほど科学的安全性を保証しているのかもしれない。問題はデータ測定対象となっている原発施設を廃炉にする工事を進めている東京電力という民間企業を今後ずっと信用できるかということだ。

データ分析そのものではない。組織は信頼できるのか?

これが問題の本質だろう。

当事者が信用できるのかという不安は、科学を信頼しない幼稚な感情論とは別のものである。

盗人にも三分の理。だとすれば、反対論には五分の理があろう。

頭ごなしに否定するのではなく、真面目に対応するのが筋だと小生は思いますがネエ……。


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