2023年7月22日土曜日

断想: 支持されない内閣は「弱い政府」の証拠だろうが……

今回は「お喋り的投稿」。

いまの岸田内閣の最大の弱みを野球に例えると、

首相が繰り出してくるプランに<球威>がない

そんな印象に似ているのだ、な。

政策立案はトップが単独で考案するものではない。スタッフ、官僚組織全体が練り上げるものだ。しかし、<案>としての完成度を判定するのは、正にトップに座る人物その人である。使えるか使えないか。出せるか出せないか。最後の見極めをトップがするのでなければトップは他に一体何をするのだろう?

そんな意味で、今の日本国は球威のないピッチャーがマウンドにいて、相手の強力打線を(今のところ)四苦八苦してかわしているが、そのうち決定的なイニングがやってきて集中打を浴びそうな予感がする……そんな感覚に近いものがある。

いま、日本の総理大臣職にある人は、行政という分野における「トップ」ではないのだろうか?実際、戦前期においては各省大臣は総理大臣と対等の立場で統治権を有する天皇を補弼(≒助言)し、承認を得た上で担当官庁を指揮したのである。この戦前期の仕掛けは戦後日本では一新され、特に橋本行革の後は総理大臣の権限が強化された。だから政府のトップは総理大臣だとみな思っている。実質的にはそうなってはいないのだろうか?

ま、いないのかもしれない。実質的な政治権力の中枢が総理大臣にはなかった事例は戦後においてもいくらでもある位だ ― かつての「目白の闇将軍」などはその典型例である。日本は「法」が権力の行使を規定する法治主義では必ずしもなく、中国に近い「人治主義」に近い国なのだ、現実には。日本がもつアジア的伝統は、いくら否定してもゼロに解消することは決してできないと感じている。日本人の感性、社会的慣習の全体がそうなっているのだ。

岸田現首相は、誰かに遠慮しながら意思決定を行っているのだろうか?かつて天皇が実の父である▲▲院に遠慮していたように、本当の意思決定は首相とは別の誰か(たち?)が行っているのだろうか?

だとすれば、今の日本は弱い政府に治められている国である。

前にも投稿したことがあるが、「強い政府」というのは必ずしも国民を幸福にするものではない。国民は政府が弱体でも、というより政府が弱い時代にこそ、むしろ幸福になるものだと小生は考えている。実際、日本史を通してこういう認識の方が当てはまっていると考える立場に小生はいる。日本国で強い政府が出現すると、むしろ国民は不幸になるとすれば、これ自体が最も不幸なことではあるのだが……

だから内閣や政府の弱さは、それ自体、小生は嫌いではない。

怖いのは、余りに弱く、愚かで、理屈に合わない大衆の危機感に煽られて、政府がとんでもない法律を施行してしまうことである。民主主義社会に特有の怖さである。この場合、「自民党」という政党そのものが弱い政党であるという意味でもあるが。

ロッテの佐々木朗希が投げる160キロ超の剛速球に似た強い政権はと言うと、やはり(可能性は低いが)社会主義政権、共産主義政権ということになる。個々人の自由な暮らしよりは社会の目的が優越するという建て前になれば、国が個人に加えるプレッシャは最大になる理屈だ ― 公私の公の重みが100対0という程のエクストリームなイデオロギーが確立されれば、資産や所得、所有権など財産権の神聖という概念も消え去ろう。個人の所得は全て国の収入というロジックになるから「税負担率」などという概念もなくなる。全ての国民は国から生活費を支給され、指示される職務を果たす。国民は完全に平等に処遇される。ま、国民は社会の細胞として機能する一種の「兵営国家」になる。これが一方の極端だ。

非民主主義社会も怖いが、「怖い」ということ自体は民主主義社会も変わりはない。怖さの種類が違うのだ。

このところ、来年のNHK大河ドラマになるのがきっかけとなったわけではないが、『源氏物語』を谷崎潤一郎の新々訳と与謝野晶子訳を並行させながら読み進めている。原文も確認する箇所がある。俗に「須磨源氏」と揶揄される段階は過ぎたところだ。

ドンファンのような貴族が女漁りに狂い、許されぬ不義の子を為すのであるが、実は本人なりの夢や倫理や美意識があり、加えて情味が豊かで憎めぬ男が主人公の光源氏である。難しい人間関係の中で幸運にも大出世を遂げるのであるが、それほどの幸運と富、それに積極的意志があっても、最愛の女性を幸福にすることはついに出来なかったのである……、マア、こんな筋立ての大河小説なのであるが、時代背景としては平安時代で、当時の日本は政治的には天皇から外戚の藤原家へと権力が移り、摂関政治と言う実に怪奇かつ無責任な、法制度的にはまったく根拠のない政治体制の下にあった。

そもそも古代の日本は、大陸文化の導入と積極的外交が特徴で、特に大化改新から奈良時代にかけての100年余の時代は律令の整備と公地公民制の確立、高まる国防意識の下で21~60歳の男子には3~4人に1人の割合で課される兵役の義務に特徴づけられていた。ところが首都が奈良から京都に遷都され平安時代がやってきて、やがて大陸では唐王朝が滅亡する頃になると、危機意識は風化し、中央政府が国民に求める負担の圧力も軽くなっていった。

ネットで検索してみると

平安時代に入り、桓武天皇の792年に健児の制が成立して軍団、兵士が廃止され、国土防衛のため兵士の質よりも数を重視した朝廷は防人廃止を先送りした。

実際に防人軍団の外国勢力との交戦は、1019年に中国沿海地方の女真族が対馬から北九州を襲撃した刀伊の入寇の1度だけである。

院政期になり北面武士・追捕使・押領使・各地の地方武士団が成立すると、質を重視する院は次第に防人軍団の規模を縮小し、大宰府消滅とともに消えていった。

URL:https://www.japanesewiki.com/jp/history/%E9%98%B2%E4%BA%BA.html 

こんな記述がある。高校時代に習った日本史の授業を思い出す人も多いだろう。「健児制」への転換は国民皆兵の停止、つまり半ば専門的な予備兵を活用することによる軍制軽量化が目的であった。『源氏物語』は正にそんな退行的な時代を背景とした貴族社会が舞台である。

美の感性が「ますらお振り」から「たおやめ振り」へ、(現代の価値基準と表現がマッチしないかもしれないが)いわば「男性的感性優位の時代」から「女性的感性優位の時代」になっていたことは読めばすぐに分かる。登場人物は男女を問わず袖を濡らして泣いてばかりいる。

所詮は「ああ言われた」、「こう返された」という暗示と忖度の世界である。冒険や命のやりとりは皆無である。暮らしの調度品や生活習慣は全く馴染みがない。それでも登場人物が生きているかのように感じるのは、人間の本性が千年前と現代とでほとんど変わっていないからである。

『源氏物語』の背景は「尊貴な血筋」と「弱い政府」が上にある世界である。この大河小説が日本的美の始まりであるなら、それは筋肉が衰えた上流世界で発達し、花開き、定着した感性である。故に小説は上品で趣味がよいのである。


<強すぎる政府>の出現を防止するのは統治権者をしのぐほどの貴族階層である。貴族(=門閥、閥族、名門)が数に勝る大衆と対立している社会状況、及びそこから生まれる弱い政府の下で、権力は分散され、結果として大多数の国民は平穏で幸福な暮らしを得られやすいのである、と。小生はそんな風に思うことが多い。

小生は良く言えばあらゆる価値観から自由でありたいと考える(言葉の定義どおりの)リベラリスト、悪く言えばへそ曲がりである上に無定見である。だから社会の安定に必要であれば、貴族であれ、身分であれ、階級であれ、格差であれ、あった方が良いものはあった方がよいと考える立場にいる。

源氏物語の世界が過ぎ去ったあと、日本には力で物事が決まる武士の時代が来た。強い政府の基盤には大なり小なり<武断主義>の思想がある。

日本社会の美意識、倫理観、正邪善悪の感覚は、時代ごとに日本が置かれる国際環境に大きく左右されてきた。

与えられた国際環境の中で、どのような生産体制を組織化し、国民は毎日の生活をおくるのか?

要するに、与えられた《生存環境》の中で《食っていく》プロセスに支障がないような倫理が良しとされ、それを裏付ける政治が善政と評価され、権力者が選別され、そこから時代特有の美意識が形成され、流行が生まれ、多くの人が求める芸術や芸能が発達するのである、と。こう書けば、典型的な《唯物史観》そのものであるのは自覚している。

この理屈は現代という時代にも適用できると思っているのだ。日本国内のマスメディアはもはや時代に先駆ける程の知識や学識を失っているのは明瞭で、(情けないが)「拡声器」のようになって社会の変化に後ろからついてくるだけの存在になってしまった。

人間の知性の働きは予測できないが、個々人にはどうにもならない集団全体、つまり社会の変化であれば、生産や消費、暮らしの利便など物質循環の状態から予測可能となる。社会の物質的側面が予測できるなら、倫理や道徳、政治の方向、価値観の変化などの上部構造も又予測できるのだ。だから対象が自然ではなく人間社会であっても科学たりうるのだ。これが社会科学成立のモメンタムである。

「科学の世紀」と言われた19世紀人ならではの発想だが、まったくの夢物語とも言えない。よくよく見れば、我々の価値観、是非善悪、政治哲学等々、生活のあり方の後を追いかけながら変わってきていることに気が付くはずだ。


いま現在は「弱い政府」であると感じる。しかし、いま日本を取り巻いている国際環境は激変期を迎えており、「弱い政府」でよいのかどうか見通せない。弱い政府が続けば、日本人は自分の才覚でむしろ幸福な生活をおくれる時代が来るに違いない。しかし、国防意識の高まりが「強い政府」を実現させてしまう可能性もある。そうなれば日本人の生活はかえって不幸なものになる。小生はこんな予想をしている。

日本という国には(何故だかよく分からないが)そんな社会法則が当てはまっていると思っている。


今日は怪しい積木細工のようなことを書いた。日本国では弱い政府の時代の方がかえって日本人は幸福で充実した暮らしを期待できるというのは、よくよく整理してみないといけない。「何だかそんな気がする」という程度だ。が、案外、的をついている気もする。詰めた話はまたの機会に。

【加筆】2023-07-23、07-24、07-25

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