2023年7月26日水曜日

断想: 齢をとれば血圧は上がる。自然なことではないだろうか?

カミさんが降圧剤を服用し始めたのは1年程前である。ところが数日前、細菌性膀胱炎による頻尿でストレスが増したせいか、夜になってから血圧が175を超えるところまで急上昇した。そこで頓服用降圧剤をのんだが、その夜は尿意のため安眠できず、朝になってから今度は定期服用している降圧剤を服用した。そして同じ日の午前中、膀胱炎の診察を受けるためにかかりつけの医院に行った。診察後に薬局まで歩き、薬を受け取ってから生協で買い物をして会計を済ませたところで意識が薄くなり救急搬送された。血圧はその時点で100を下回っていた。小生はカミさんと生協で待ち合わせていたのだが、不慮の事態が出来して夜までバタバタと過ごした。

血圧低下の主因が、降圧剤の過剰服用にあったのは(事後にそれぞれの効果持続時間について説明されて理解できたが)明らかである。加えて、膀胱炎によるストレスと睡眠不足、暑い中を歩いたことによる水分不足も影響したに違いない。

要は、齢をとってから血圧を管理するのは、意外に面倒で、油断をするとトラブルを招きがちだということだ。

こんな話をカミさんとした:

小生: ぼくの若い頃はサ、齢をとると血圧が上がるのは当たり前でネ、目安は『年齢プラス90』だって、聞いたことない?

カミさん: そうそう。お爺ちゃんの血圧が180だって聞いたことあるけど、齢をとっているから仕方がないネって、話していたの聞いたヨ。

小生: 年齢が70になれば血圧も160くらいにはなるって、そんな当たり前みたいな感覚があったヨネ。

カミさん: もしそうならアタシはまだ降圧剤、飲まなくってもイイって話だよネ。

小生: それがいつからかナア……、老人でも血圧が130を超えるのはまずい、降圧剤で下げる方がイイってことになってサ。昔は、脳卒中で亡くなる老人が多かった気がするんだヨネ。脳卒中の背景には高血圧があるのが普通だろ?ぼくが少年だった頃は、日本人の平均寿命が65歳前後だと思うんだけどサ、その頃、ぼくの小学校の担任の先生が脳卒中で倒れてネ、先生のお宅にお見舞いに行ったことがあるんだ。まだ先生の顔やお宅の中の雰囲気をぼんやり覚えてるヨ。優しい先生だったナア……

カミさん: 最近は脳卒中で倒れたって、あんまり話は聞かないヨ。糖尿病とか癌は周りにも多いし、しょちゅう聞くけど…

小生: 65歳くらいで脳卒中で倒れる社会と、85歳前後まで長寿化して、その代わりに認知症の患者が急増した社会と、どちらがイイか、僕には分からないナア……。脳卒中は、本人の感覚ではフウッって気の遠くなる感覚らしいんだよネ。家族は突然の事で驚くんだけどネ。中には救命措置されても半身不随になって長い間苦しむケースもあるんだけど、無理な治療をしなければ、本人も家族も苦しむことはそう多くはないのが脳卒中だと思うノサ。

マア、こんな話をしたのだ、な。

小生の母方の祖父は、血圧が高く、晩年は飲酒を制限されていた。直接には、虚血性の心疾患で亡くなった、と記憶している。制限されていたとはいえ、小生が訪れると1,2合の銚子は何だかんだと言いながら迷いなく楽しみ、煙草の紫煙をくゆらしながら会話を続けるのが常であった。どう考えても、職業生活を終えた後の晩年を幸福に過ごしたことに間違いはないと(孫の目から見る限り)感じている。

日本人の死因を図にすると下のようになっている。

URL:https://honkawa2.sakura.ne.jp/2080.html

図のソースは『社会実情データ図録』である。データの信頼性は高いと小生はみている。このサイトを運営し、オープンな場に公開しているのは明らかに公益に寄与している。その志には尊敬の気持ちを禁じ得ない。

さて、上のグラフをみると、戦前から戦後にかけて<結核>による死亡者数が急減してきた点にまず気がつく。<肺炎>も同様だ。結核・肺炎の減少と逆行する形で増加したのが<脳血管疾患>と<癌>である。その脳血管疾患も1970年前後がピークで、それと入れ替わるように増えてきたのが<心疾患>である。

注:「脳血管疾患」には脳出血、脳梗塞等があるが、本稿では大雑把に「脳卒中」と呼んでおく。実際、暮らしの中ではその程度の言葉の使い方をしていた記憶がある。

長寿化すれば、必ず認知症患者は増える。しかし、認知症患者が認知症それ自体で死を迎えることは(ほぼ?)なく、認知症患者は有病率が高い点が問題なのである。有病率が高い点に加えて更に介護に多くの人の労働を必要とする。現在は、認知症患者が増える中で、日本人は主に《癌|心疾患|老衰》で死亡している。小生が若い頃には、癌よりは脳卒中で世を去る人の方が多かったのである。

これらを総合して思うのだが、日本人の平均寿命が長くなっていることで、日本人全体の幸福度はどの程度まで向上しているのだろう?


これは全くの主観だが、65歳前後で亡くなった人と、90歳まで長生きして亡くなる人と、どちらが幸福であるか、判断できる理屈はない。寿命の長さは<幸福量?>の目安だと語る人もいるが、眉唾ものだ。それに一人一人の人生は千差万別。個人間のばらつきは余りに大きい。寿命が長いからという思考に実証的意味はない。小生の父は53歳、母は61歳で亡くなったが、平均寿命85歳との差、つまり父は32年間、母は24年間だけ得られるはずの幸福を失った、と。とてもこうは感じられない。反対に、現在、《長生きのリスク》が議論されている ― この辺の想いは、ずっと以前にも書いたことがある(たとえばこれ)。

医学の進歩によって、なるほど平均寿命は長寿化した。日本国にとっても名誉なことではある。これは数字でみえる成果だ。しかし、医療技術の応用で平均寿命はコントロールできても、人生の幸福がコントロールできているわけではない。


最高の価値は《幸福》に置くべきだ。ところが、しばしばイデオロギーが邪魔をして、人間本来の自然な見方を曇らせる。何よりも怖いのはイデオロギーという理屈である。そう思う今日この頃であります。

民主主義に価値があるとすれば、人間本来の感情には反するが、特定のイデオロギーには合致するような「合理的政策」に対して、NOをつきつけることを可能とするためだ。

少し前にも投稿したことだが、人間には能力の差異があり、難問に正解できる人は少ない。見事な演技が出来る人も少ない。真の創造力を持っている人も少ないのである。世間の中で正論は常に少なく愚論は多い。専門家と言っても優れた人は少数でレベルの低い専門家の方が多い。多数の人は多数派の専門的意見に騙されるのが常である。故に「世論」は間違った選択をする危うさが常にある。それでも民主主義に価値があるとすれば、普通の人の感覚に反するような政治を(長期的には?)不可能とするためだ。その一点だけだ。それ以外に何かの利点が民主主義にはあるのだろうか?こうも思う今日この頃であります。

真理と真理に関する人間の知識はそれ自体に価値があるのではなく、人類により多くの幸福をもたらすから価値がある。技術も同じだ。情報もそうだ。「価値」とは最終的な目的に寄与する度合いとして定義される言葉だ。この点で小生は完全な功利主義者である。結果重視論者である。


・・・今回もまた小生が好きな話題をとりあげて終わった。繰り返しだ。これもまた物好きということで。

【加筆】2023-07-28



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