拙宅では子供がまだ幼い頃からずっと続いている習慣がある―いまはカミさんと二人で同じ会話をしているのだが。
それは8月6日の広島原爆記念日から始まり、9日の長崎原爆記念日、12日の御巣鷹山慰霊祭、15日の終戦記念日、18日の施餓鬼会、23日の月参りまでの2週間余りを「鎮魂週間」と呼んでいる習慣だ。この期間のどこかには住職がやってきて仏壇に読経をあげるからその準備にカミさんは早起きをしてお霊供をつくる。だから今もまだ忙しい ― 「盆参り」は寺の方も多忙で読経と言ってもそれ自体は極めて短いものであるが。
そんな真夏の鎮魂瞬間の真っただ中、思うにしては現実的すぎる話題を二つ。
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毎日新聞にこんな記事があるそうだ(毎日を購読したことはないがネットで概要が分かるのは便利なものだ)。無料版は「さわり」の部分だけであるが、記事内容のスタンスを察するには十分だ。
――わくわくシニアシングルズは、昨年、中高年シングル女性の生活状況の実態調査(同居している配偶者やパートナーがいない40代以上の単身女性約2400人を対象)を実施しました。
🔹 一番の問題はなんといっても年金では生活できないことです。今の年金制度は女性が1人で生活することを想定して設計されていません。
Source:毎日新聞、8月10日
思わず「設計ネエ…」、「年金ネエ…」と声が出てしまいました。齢です。
なにも女性に限ったことではない。男性も同じである。その人が暮らすための所得は政府の責任であると考えるなら、もはや現代日本人の意識は《社会主義国家》と同じである、旧ソ連の国民は「暮らしやすい」と感じていたというが、政府が全ての国民に暮らしやすさを保障するそんな社会がよいと、多くの日本人はいま感じているのではないか、そう思った次第。
社会主義国家は、原則として全ての国民に国が定めた標準的な生活を一律に保障するのが基本だ。そのためには完全平等な所得分配を目指し、極度に累進的な所得税を課す、というより国が定めた一律に近い給与を政府が支給する。私有財産は最小限の範囲でのみ保有が許される。利潤や資産所得は認められない。確かに、そうした社会制度が確立されれば、経済格差は原則として消失し、暮らしの不安を感じる人はいなくなる理屈だ ― それでも国家の経済が破綻すれば国民は塗炭の苦しみを味わうのであるが。
ただ日本は、有史以来、こうした制度を実施したことはない ― 7世紀後半から奈良時代にかけて律令が整備され、そこでは「公地公民制」が柱になったが、短期間のうちに私有財産制が復活し、以後の日本社会は強力な中央権力を嫌う分権的な構造で一貫している。
強い中央権力がない中で、自分の人生は自分で努力して歩くもので、政府に保証してもらうものではないという立場を小生は好んでいる。なぜなら生活を保障してくれると楽だが、フリーランチはないという理屈で、そうなると自分の意志が通らない時が増える。お仕着せの支援である。それでいて遠慮しながら暮らすのもきついではないか。
生きていくには、自ら事業を経営するか、でなければ他人に雇用されて暮らすか、この二択である。それでも困る事はある。そんな時は、政府を頼ってもよいが、役所でなくとも有力者の援助を得てもよい。親や子を頼ってもよい。親戚、知人を頼ってもよい。政府の役人よりは人の縁だと考える方を小生は好む。そもそも日本社会の伝統的エートス(≒ 気風)はこんな風ではなかったかと感じる。
濃密な人間関係を保つ社会の方が希薄な人間関係で成り立つ社会よりは頑丈である。
経済的弱者がいる。その人を上流階層のある人物が「利己的にか、自発的にか」何かの動機で(幸運にも)援助する。生活費や学資を贈与する。歴史を通して何も珍しくはなかった行為だ。そうした民間の自発的な支援に対して ― 「恩」という伝統的な行為に該当するが ― 政府は贈与税を課して財政収入とする。更に、そうした贈与という行為こそが所得分配、資産分配が不平等であることの証拠であると批判する。政府による公的福祉が不十分であることの証拠であると指摘する。不平等であるからこそ民間の相互扶助が発生するのだとコメントする。福祉は政府の責任であると主張する。寧ろ政府が独占的に福祉を行うべきであると言う。こう考えて「福祉国家」が構築された。福祉法人も認可法人であるから、つまりは公的組織である。《福祉国家の理念》は福祉活動を政府(及び政府が認可した機関)に独占させるという意味でホボ〃社会主義であると小生は思っている。
ここには福祉の一律主義がある。福祉の標準規格という発想がある。「一人残らず平等に」というコミュニズムへの共感がある。そう感じるのだ、な。
その信念がいま日本社会を縛っている。目的が善であるが故に日本社会を自縄自縛の状態に束縛している。最近はこんな社会観をもってみているのだ、な。
弱者を支援する意志と能力をもつ主体は政府とは限らないだろう。法や制度が人間が元来持っている親切、貧しい世帯を助けたいという善意を妨害してはならない。
これが第一歩だと思いますがネエ……。
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NYTでコラム記事を書いているクルーグマンが中国経済、中国社会をどう観ているかは、足元で続けざまに寄稿しているのであるが、Wall Street Journalでもこんな記事がある。
中国は過去10年間、世界的な人気を高めるために何百億ドルもの資金を投じてきた。しかし、功を奏していない。ソフトパワー(国の理念や制度、文化によって人を引きつける力)においては、米国の方が中国よりはるかに勝っている。これは米政府にとってチャンスだ。
(中略)
尊敬されているのであれば、不人気でも構わないという見方はあるが、中国の軍隊が世界最良だと答えたのはわずか9%だった。中国が最良だと答えた人がそれより少なかった分野は、大学(6%)、エンターテインメント(3%)、生活水準(3%)だった。中国が提供するものが世界最良だと考えている人の割合がかなり多かったのはテクノロジーのみで、19%がだった。
(中略)
経済面でのこれまでの中国の台頭ぶりは目覚ましかった。しかし、メキシコの労働者やケンブリッジ大学の教員、マレーシアの医師らがすぐさま理解できる思想が中国には欠けている。かつてのソ連は、それとは対照的だ。ソ連も、プロパガンダを通じて影響力を行使したが、ソ連の共産主義への傾倒はずっと明確だった。そして多くの国々で共産主義を信奉する人々を生み出した。中国人以外で、漢民族至上主義に魅了される人などいるだろうか。
Source:WSJ、 2023 年 8 月 10 日 15:16 JST
URL: https://jp.wsj.com/articles/china-cant-seem-to-make-friends-or-influence-people-830e1c96?mod=hp_opin_pos_1
Author: Sadanand Dhume
同じ主旨のことは先日も投稿したが、経済発展で大成功した割には「これが中国発の文化だ」と言えるものが、「何一つとしてない」。ホント、小生の情報不足かもしれないが、主観としては、何一つ思い浮かばない。
漢字や、漢詩、水墨画はあまりに昔の文物でありすぎる。『孫悟空』、『三国志演義』、『水滸伝』、『紅楼夢』、『金瓶梅』を挙げられても遥か昔の作品で古すぎる。もっと最近で、という意味だ。
ロシアがまだソ連であった時代、旅行は不自由であったが、それでもドストエフスキーの『罪と罰』の舞台となったサンクト・ペテルブルグのネフスキー大通りには行ってみたいと思ったものだ。ソーニャがラスコーリニコフに老婆殺しの告白を求めたセンナヤ広場も欠かせない。チャイコフスキーのVCを聴きながら『カラマーゾフの兄弟』を読むのは至福の時間であった。小生が小役人をしていた頃の同僚は、まだソ連であった時の同地に一人旅をしてエルミタージュ美術館を観てきたものである。
ロシアですら(と言うのは大変失礼なのだが)そうだ。
小生の下の愚息がまだ高校2年生であった年末、家族で中国に行ったことがある。訪れた八達嶺長城は500年以上も昔の構築物である。同じ明王朝が建てた紫禁城は中が空っぽである ― その当時、ドラマ「瓔珞」が既にヒットしていれば、紫禁城内の延禧宮を訪れ、乾隆帝の御代華やかなりし時代を偲ぶこともできたのだが。
ま、いずれにせよ、世界が納得する中国発の魅力ある文明が何一つとしてない、あるのは過去から継承した歴史的遺産のみという情況は、今後の中国の最大のウィークポイントではないかと思う。
そして、これをもたらした主たる原因はというと、そもそも「共産主義思想」そのものの貧困さに目が向くだろう。かつては普遍的魅力を放ったこともあった。が、いまは魅力ある社会を構築する政治思想としては有効性に疑問符がつけられてしまった……経済成長は遂げたが、その上に開花するはずの文芸、芸術がさっぱり出て来ないのは、結局、コミュニズムという思想そのものに含まれる抑圧性や独善性がもたらす精神的な貧困によるのだろう。こう思ったりしているわけだ。ま、それでなくともソ連の壮大な失敗はまだ記憶に新らしいのである。
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だとすれば、いまもなお社会主義的な制度に魅力を感じ、それが善であると考える姿勢は、どこかもう古臭く、心情は理解できるものの、進歩にはつながっていかない。そういうことかもしれない。
デジタル化だけではなく、不平等を解決するための思想的準備という面でも、日本は遅れつつあるのではないかと感じることが多い。
いや、いや、「遅れている」というより、「方向音痴」で分からなくなっているのかもしれない。貧困の救済は資本主義では不可能で社会主義によるしかないと考える思考回路そのものが、現代においては、もはや陳腐化している。そう思っているのだ、な。
だから、ヨーロッパの<高付加価値税率+高福祉>という国家モデルも、日本では羨望の的になることが多いが、人口減少、移民増加、軍事費増大という21世紀的情勢の下では、非常に脆弱なのではないか。これもまた、制度疲労が進んで、そろそろ限界ではないのかナと、いまそんな風に思っているわけだ。
こんなことを考えているから、北海道と言えども、暑くてたまりません。
【加筆】2023-08-16
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